ギュスターヴ・クールベ
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ギュスターヴ・クールベ Gustave Courbet | |
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ナダール撮影 | |
本名 | Jean Désiré Gustave Courbet |
誕生日 | 1819年6月10日 |
出生地 | フランス王国、オルナン |
死没年 | 1877年12月31日 (58歳没) |
死没地 | スイス、ラ・トゥール=ド=ペ |
国籍 | フランス |
運動・動向 | 写実主義 |
代表作 | オルナンの埋葬、画家のアトリエ、女とオウム |
ギュスターヴ・クールベ︵クルベ︶ (フランス語: Gustave Courbet[1], 1819年6月10日 - 1877年12月31日) は、フランスの写実主義の画家。
生涯[編集]
●1819年、スイス国境に近いフランシュ・コンテ地方の山の中の村、オルナンに、裕福な地主の子として生まれる[2]。 ●1831年、オルナンのカトリック系中学校に入学し、そこで基本的なデッサンを学ぶ。 ●1837年、王立の高等学校に入学する。そのかたわら画家フランジューロのもとで学ぶ。 ●1840年、21歳の時にパリへ出てソルボンヌ大学法学部に入学するが、本人を法律家にさせたかった父親の意図に反し、彼自身は画家を目指してアカデミー・シュイスに通い、ルーヴル美術館で巨匠たちの作品を模写した。 ●1844年、﹃黒い犬を連れた自画像﹄がサロンに入選しているが、これは当時の画家としては非常に遅いデビューである。 ●1845年から1846年、﹃ギタレロ﹄、﹃革のバンドをした男﹄がサロンに入選。 ●1849年、﹃オルナンの食休み﹄がドミニク・アングル、ドラクロワの二人に評価され、それがもとで国家が買い上げることになり、リール市立美術館に所蔵された。 ●1851年、﹃オルナンの埋葬﹄を出品するが、批判をうける。 ●1853年、サロンで批判をうけた﹃浴女たち﹄、﹃眠る糸紡ぎ女﹄が美術愛好家のアルフレッド・ブリュイヤスに購入される。以後、彼はクールベの後援者となる。 ●1855年、パリにおいて世界で2番目の万国博覧会が開催された。クールベは、この万国博覧会に大作﹃画家のアトリエ﹄と﹃オルナンの埋葬﹄を出品しようとする。しかし他の作品は審査を通過したにもかかわらず、これらの大作は落選してしまった。そこでクールベは後援者ブリュイアスに資金を仰ぎ、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、﹁ギュスターヴ・クールベ作品展。入場料1フラン﹂という看板を立て、1855年6月28日から公開した。当時、画家が自分の作品だけを並べた﹁個展﹂を開催する習慣はなく、このクールベの作品展は、世界初の﹁個展﹂だと言われている[3]。また、この個展の目録に記されたクールベの文章[4]は、後に﹁レアリスム宣言﹂と呼ばれることになる。﹁レアリスム宣言﹂において、クールベは﹁自分は生きた芸術をつくりたいのだ﹂と言っている。 ●1858年、ドイツに数カ月滞在し、﹃フランクフルトの夫人﹄などを制作する。 ●1870年、パリ・コミューン︵コミューン美術委員会議長になっていた︶に参加し、反乱に加担し、ヴァンドーム広場の円柱破壊事件の責任を問われて逮捕され、莫大な費用の支払いを命じられる。 ●1873年、スイスに亡命する。 ●1877年、亡命先で失意のうちに58歳の生涯を閉じた。なお、オルナンの生家は現在クールベ美術館になっている。代表作[編集]
- 『オルナンの埋葬』(1849年)(オルセー美術館)
- 『画家のアトリエ』(1855年)(オルセー美術館)
- 『世界の起源』(1868年)(オルセー美術館)
- 『白いストッキングを持つ女性(白い靴下)』(1861年)
- 『出会い(こんにちは、クールベさん)』(1854年)(モンペリエ、ファーブル美術館)
- 『女とオウム』(1866年)(メトロポリタン美術館)
- 『波』 (1870年ごろ)(国立西洋美術館)
- 『石割り人夫』(第二次大戦中ドレスデン爆撃で焼失)
『オルナンの埋葬』と『画家のアトリエ』[編集]
今ではクールベの代表作とされている、大作﹃オルナンの埋葬﹄も、発表当時の評判はさんざんであった[5]。この絵にクールベが付けた題名は﹃オルナンの埋葬に関する歴史画﹄というものだった。当時のフランスの人々にとって﹁歴史画﹂とは、古代の神々、殉教者、英雄、帝王などを理想化された姿で描いた格調高い絵画のことであった。これに対し、オルナンという、山奥の田舎町の葬式に集まった名もない人々という主題を、まるで歴史上の大事件のように扱い、このような巨大な画面︵縦約3.1メートル、横約6.6メートル︶に表して﹁歴史画﹂と称するのは当時としては常識はずれのことだった。
もう一つの代表作﹃画家のアトリエ﹄も大作である︵縦約3.6メートル、横約6メートル︶。この作品には﹁私のアトリエの内部、わが7年間の芸術的な生涯を要約する現実的寓意﹂という長い副題が付せられている。﹁寓意画﹂とは、たとえば﹁愛﹂﹁真実﹂﹁信仰﹂﹁死﹂のような目に見えないもの、形のないものを擬人化したり、静物画で表したりする、西洋絵画の伝統的な主題の一つであるが、クールベは、アトリエで制作する自分自身の姿と、周囲に集まる30人ほどの人々を描写したこの絵を﹁寓意﹂だと言っている。
画中に描かれた人物たちは、全員が何らかの﹁寓意﹂を表しているとされ、知人で作家のシャンフルーリ[6] に出した手紙[7]でこう説明されている。
舞台はパリの私のアトリエです。画面は二つの部分に分かれています。真ん中で私が描いています。右側は株主たちすべて、つまり友人たち、労働者たち、芸術界の愛好家たちです。左側は野卑な生活の別の世界で、民衆、悲惨、貧困、富、搾取者、被搾取者、死によって生きる人々です。
クールベは、上記2作品のようなグループ肖像画のほか、森の中の動物を主題にした風景画や、官能的な裸婦像などにも傑作を遺している。
ギャラリー[編集]
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『黒い犬を連れた自画像』(1842) プティ・パレ
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『絶望(自画像)』 1843-1845
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『自画像』 1848-49
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『ハンモック』 1844
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『ゼリ・クールベ』(1847) サンパウロ美術館
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『シャルル・ボードレールの肖像』(1848-1849) ファーブル美術館
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『石割人夫』(1848)
ドレスデン爆撃(1945年)で焼失 -
『オルナンの食休み』(1849) リール市立美術館
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『市場から戻ったフラジェイの農民』 1850
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『出会い - こんにちは、クールベさん』(1854) ファーブル美術館
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『白い靴下』(1861頃) バーンズ・コレクション
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『寝床の女性』 1862
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『泉』(1862) メトロポリタン美術館
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『コウンテス・カロリイの肖像』(1865) 私蔵
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『入浴する若い娘』(1866)
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『村の貧しい女』(1866)
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『女とオウム』(1866)メトロポリタン美術館
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『波の中の女』(1868) メトロポリタン美術館
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『波』(1870) オスカー・ラインハルト・コレクション
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『エトルタの崖、嵐のあと』 1870
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『ジュラ山脈の流れ』(1872-3) ホノルル美術館
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『ノルマンディーの海岸』(1872- 75)
ナショナル・ギャラリー (ワシントン)脚注[編集]
(一)^ "FORVO"での発音例 (二)^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年8月3日閲覧。 (三)^ 例えば、有地京子﹃オルセーはやまわり﹄︵中央公論新社︶によれば、﹁不敵な暴れん坊クールベは、万博での展示を拒否されると、万博会場の向かい側で史上初の個展を開催し、レアリスム宣言をしています﹂と書かれている。 (四)^ “ギュスターヴ・クールベ|リアリスム|1855年”. ARCHIVE. 2024年4月18日閲覧。 (五)^ “﹁オルナンの埋葬﹂ ギュスターヴ・クールベ”. 世界の美術館. 2023年3月31日閲覧。 (六)^ ﹃シャンフルーリ﹄ - コトバンク (七)^ “ギュスターヴ・クールベ|画家のアトリエ﹇シャンフルーリへの手紙﹈|1854年11〜12月”. ARCHIVE. 2024年4月18日閲覧。 (八)^ “Les Baigneuses”. Musée Fabre. 2017年12月29日閲覧。関連項目[編集]
●アンリ・マティス ●松方コレクション - ﹃市の帰り﹄、﹃夕日﹄、﹃森のニンフ﹄外部リンク[編集]
●ギュスターヴ・クールベ﹁画家のアトリエ﹂︵1854年、内田巌訳︶ - ARCHIVE。﹃画家のアトリエ﹄制作当初、シャンフルーリ宛に構想などを記した手紙 ●ギュスターヴ・クールベ﹁レアリスム﹂︵1855年︶ - ARCHIVE。1855年に開催した史上初の個展で配布した冊子・文章。いわゆる﹁レアリスム宣言﹂