トマス・ペイン
表示
![]() トマス・ペイン | |
生誕 |
1737年1月29日![]() |
---|---|
死没 |
1809年6月8日(72歳没)![]() |
時代 | 18世紀の哲学、啓蒙時代 |
地域 | 西洋哲学 |
学派 | 啓蒙思想、自由主義、共和主義 |
研究分野 | 政治哲学、倫理学、宗教哲学 |
主な概念 | 人間の権利 |
影響を受けた人物
| |
トマス・ペイン︵Thomas Paine、1737年1月29日[1] - 1809年6月8日︶は、イギリス出身のアメリカ合衆国の哲学者、政治活動家、政治理論家、革命思想家。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Commonsense.jpg/220px-Commonsense.jpg)
﹃コモン・センス﹄1776年出版
1776年1月10日、フィラデルフィアでペインが執筆した政治パンフレット﹃コモン・センス﹄︵Common Sense、﹁常識﹂の意︶の初版が1部2シリングで販売され、1000部印刷された初版はたちまち売り切れた。その後3ヶ月で12万部を売り切り、その年の末までに56版を数え15万部が売れたという。民主的平和論を説き植民地の権利を守らないイギリスの支配から脱し、アメリカが独立するという考えは﹁Common sense﹂︵常識︶であると説いた。独立宣言発布直後にペンシルベニア連隊に入隊し、将軍付の秘書・副官となる。ワシントンに紹介されて2年間その下で働き、﹃危機﹄︵Crisis︶と呼ばれる一連の小冊子や論文記事を出版し続けた。1777年4月から1779年1月まで連邦議会外務委員会の書記をつとめ、1779年11月、ペンシルベニア州議会の書記に任命された。このとき滞納されていた賃金1690ドルを支払われると、ペインはそのうちの500ドルをワシントン軍に寄付したため、この例にならう者が続出し、議会が銀行を設立することを可能にしたという。1780年3月にペンシルベニア州議会が可決した奴隷廃止法案の前文を書き、7月4日にペンシルベニア大学から名誉博士号を贈られている。1784年には、独立に対する貢献により、ニューヨーク州よりニューロッシェルの農園を贈られている。
生涯[編集]
無名時代[編集]
ノーフォークのセットフォードにコルセット製造業者の子として生まれ、グラマースクールの第6学年から第14学年まで在籍し、歴史・数学・科学を学び、13歳から父親の店で職人としての修行をする。16歳の頃に船乗りになるため家出をし、その後船員・コルセット製造・収税吏・教師と職を転々とする。22歳と34歳の時に結婚し、両方とも離婚している。1772年に収税吏の賃金の実情についてパンフレットを執筆し、文人のオリヴァー・ゴールドスミスと知り合っている。1774年6月にロンドンでベンジャミン・フランクリンに紹介され、人物証明書を持たされてアメリカに移住する。月刊誌﹃ペンシルベニア・マガジン﹄の編集主任となり、1775年1月には600人だった購読者を2ヶ月後には1500人に増加させている。植民地の政治問題に触れ、クエーカー教徒の完全な平和主義を批判し、若者への就職準備金や老人への年金支給を含む最低限所得保障が必要なことを説いた論文﹃農民の正義﹄(Agrarian Justice)などが書かれたのと同時に、ペンシルベニア州議会に対し独立要求をけしかけている。アメリカ独立革命[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Commonsense.jpg/220px-Commonsense.jpg)