ポール・ヴェルレーヌ
ポール・ヴェルレーヌ Paul Verlaine | |
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誕生 |
1844年3月30日 フランス王国 メス |
死没 |
1896年1月8日(51歳没) フランス共和国 パリ |
職業 | 詩人 |
国籍 | フランス |
文学活動 | 象徴主義 |
影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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ウィキポータル 文学 |
ポール・マリー・ヴェルレーヌ︵Paul Marie Verlaine, 1844年3月30日 - 1896年1月8日︶は、フランスの詩人。ポール・ヴェルレーヌ、あるいは単にヴェルレーヌとも呼ばれる。ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボーらとともに、象徴派といわれる。多彩な韻を踏んだ約540篇の詩を残す一方で、破滅的な人生を送った。
中学卒業直後、高踏派の詩人たちと交わり、14歳でユゴーに詩作品を送った早熟の天才。﹃土星びとの歌﹄﹃女友だち﹄﹃よい歌﹄などの詩集で有名になった。
27歳のとき、16歳の少年ランボーから手紙を受け、その詩心に感心して交際する。だが意見の相違からピストルでランボーを負傷させた。有名な詩集﹃叡知﹄には服役中の心境が詠まれている。
放埒な生活は生涯なおらず、貧窮のうちに施療病院で死んだ。
前列左よりヴェルレーヌ、ランボー、L・ヴァラード、E・デルヴィリィ 、C・ペロタン、後列左よりP・エルゼアル・ボニエ、E・ブレモン、J・エカール。アンリ・ファンタン=ラトゥール筆
1871年-1875年
結婚1年後、ランボーと会い、妻に乱暴を繰り返した上で彼と同棲し、イギリス・ベルギー・北フランスを転々とする。母と妻が説得に来ても置き去りにして逃げ、妻に絶縁状を書き、ユーゴーに妻との交渉を懇願する。ロンドンで病臥し、母を呼ぶ︵28歳︶。ホテルで口論となったランボーをブリュッセルで購入した拳銃で2発撃ち、1発が手首に命中したが致命傷にはならなかった[2]。この騒動により2年間収監される[2]。この拳銃は2016年にクリスティーズで競売にかけられ、43万4500ユーロで落札された[2]。妻の別居請求︵この時点では離婚はしていない︶が認められたことを獄中で知って落胆し、カトリックに帰依した。1年半後出獄し、元妻との和解を図る一方、旅先でランボーと格闘する︵31歳︶。
●1872年(28歳)‥婚約時代のマチルドを歌った優しき歌︵La Bonne chanson︶、戦乱に遅れて発行。
●1874年(30歳)‥獄中で書いた無言の恋歌︵﹁言葉なき恋歌﹂とも/Romances sans paroles︶が友人の手で刊行され、獄中の著者に届けられる。
●1875年(31歳)‥第3次﹁現代高踏詩集﹂への投稿を断られる︵このとき、マラルメも同じ扱いを受ける︶。
生涯と作品[編集]
彼の一生には、酒・女・神・祈り・反逆・背徳・悔恨が混在する。晩年には文名を高めデカダンスの教祖と仰がれたが、初期の作品の方が評価が高い。以下、箇条書きの部分は文学的事項である。生い立ち[編集]
1844年-1864年 ドイツに隣接するモゼル県のメスに生まれる。父はベルギー生まれのフランス軍人。母はパ=ド=カレー県アラス近郊の生まれ。経済的な環境には恵まれており、父の退役後一家はパリ (9区) に出て︵7歳︶、ポールは小学校の寄宿舎に入り、次いでリセ・ボナパルト (Lycée Bonaparte、現在の9区にある名門校のリセ・コンドルセ[1])に、さらに修辞学級に進むが卒業には至らなかった。大学入学試験に合格し︵18歳︶、パリ市役所書記となる︵20歳︶。 ●1858年(14歳)‥習作をヴィクトル・ユーゴーに送る。このころ、ボードレールの﹃悪の華﹄などの詩集を乱読する。 ●1863年(19歳)‥匿名で雑誌に投稿する。パリの文人らを知る。青年期[編集]
1865年-1871年 父を喪う︵21歳︶。18歳の美少女マチルド・モーテ︵Mathilde Mauté︶と婚約し︵25歳︶、翌年挙式。間もなく普仏戦争︵1870年7月19日 - 1871年5月10日︶に召集される。1871年のパリ・コミューン鎮圧︵5/20 - 28︶の騒擾を、パリのパンテオン近くの自宅で避けた。失職した。長男ジョルジュ誕生︵27歳︶。 ●1866年(22歳)‥詩人たちが原稿を持ち寄った第1次﹁現代高踏詩集﹂︵Le Parnasse contemporain︶に7篇を寄稿。 ●1867年(23歳︶‥サテュルニアン詩集︵Poèmes saturniens︶を従姉の出資で処女出版。ブリュッセルで女の友達︵Les Amies︶を匿名で刊行︵後に﹁雙心詩集﹂に収録︶。 ●1868年(24歳)‥文壇の知人を増やす。﹁女の友達﹂で軽罪裁判所から断罪される。ブリュッセル在のユーゴーを訪問。 ●1869年(25歳)‥﹁よき歌﹂の数篇を書く。艶なる宴︵Fêtes galantes︶刊行。 ●1871年(27歳)‥第2次﹁現代高踏詩集﹂に5篇を投稿。ランボー[編集]
教職と美少年[編集]
1875年-1885年 イギリスの中学に教職を得る︵31歳︶。アルデンヌ県の学校に転じ、美少年の生徒リュシアン・レチノアに惚れ、授業を降ろされる︵33歳︶。その後リュシアンと英国へ渡り、教職を得る。再び元妻との和解を図り、黙殺される︵35歳︶。リュシアンを伴い帰国し、郷里に滞在︵36-37歳︶。母としばらくパリに住み、市役所への復職を図るも果たせず、西郊の学校に就職︵38歳︶。リュシアンが死去︵39歳︶し、その故郷で堕落放浪の日々を送る︵-40歳︶。泥酔して母の首を絞めて入牢。出獄後再びリュシアンの故郷を放浪した︵41歳︶。 ●1881年(37歳)‥叡智︵Sagesse︶刊行、売れ行き振るわず。 ●1882年(38歳)‥雑誌に、﹁昔と近頃﹂の数詩篇と、獄中作の詩法︵Art poétique︶を発表︵﹁詩法﹂は後に﹁昔と近頃﹂に併載︶。 ●1884年(40歳)‥評論、呪われた詩人たち︵Les Poètes maudits︶刊行。栄誉と窮乏[編集]
1885年-1896年 無一文でパリへ戻りホテル住まいをする。左膝を傷め、一時慈善病院へ︵41歳︶。経済的援助をしていた母が死去するが、病気のため葬儀に参列せず。ホテルを追い出され︵42歳︶て、以降慈善病院を転々とする︵42歳-︶。慈善病院から娼婦ウジェニー・クランツの家へ転じ、情夫となった。生活費のため、オランダへ講演旅行︵48歳︶。ウジェニーに駆け落ちされて慈善病院に入院し、娼婦フィロメーヌ・ブーダンに連れ出された。国内およびイギリスへ講演旅行をする︵49歳︶。ウジェニーと和解しまた同棲する。入院2回︵50歳︶。文部省から救済の500フランを受け取る。パンテオン近くの自宅[3]で、娼婦に看取られて死去。遠からぬサン・テチエンヌ・デュ・モン教会で葬儀。マラルメ、フランソワ・コペー(fr:François Coppée)ほか参列者多数。ただし、入営して病中にあった息子のジョルジュは不参加。パリ市17区のバチニョル墓地(Cimetière des Batignolles)に埋葬︵51歳︶。 日本では、東大生の上田敏が、﹁ポオル・ヴェルレエヌ逝く﹂︵1896︶を発表した。 ●1885年(41歳)‥漸く文名を世に知られる。昔と近頃︵Jadis et naguère︶刊行。 ●1886年(42歳)‥雑誌に﹁パルジファル﹂︵Parsifal︶掲載。 ●1888年(44歳)‥愛の詩集︵Amour︶刊行。 ●1889年(45歳)‥雙心詩集︵Parallèlement︶刊行。 ●1890年(46歳)‥献書詩集︵Dédicaces︶予約出版。 ●1891年(47歳)‥文名ますます高まる。﹁人さまざま﹂︵Les Une et les Autres︶上演。幸福︵Bonheur︶、﹁ヴェルレーヌ選集﹂、女に捧げる歌︵Chansons pour elle︶刊行。 ●1892年(48歳)‥我が病院︵Mes hôpitaux︶、内なる祈祷の書︵Liturgies intimes︶刊行。 ●1893年(49歳)‥プリューム(La Plume︶誌の第8回饗宴の座長を務める。アカデミー・フランセーズの会員に立候補し、取り消す。哀歌︵Élégies︶、その名誉を讃える歌︵Odes en son honneur︶、獄中記︵Mes prisons︶、オランダ15日︵Quinze jours en Hollande︶刊行。 ●1894年(50歳)‥奈落の底︵Dans les limbes︶刊行。シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールの後任として、﹁詩王﹂︵Prince de Poéte︶に選ばれる。エピグラム︵Épigrammes︶刊行。 ●1895年(51歳)‥懺悔録︵Confessions︶刊行。﹁失意﹂Désappointement執筆。日本語文献[編集]
●主な日本語訳 ●﹁海潮音﹂、上田敏訳、本郷書院︵1905年︶ → 新潮文庫︵改版2006年︶ISBN 9784101194011 ●﹁珊瑚集﹂、永井荷風訳、籾山書店︵1913年︶ → 岩波文庫︵改版1991年︶ISBN 978-4003104163 ●﹁ヴェルレエヌ詩集﹂、鈴木信太郎訳、創元社︵1947年︶︵詳細な年譜あり︶ → 岩波文庫︵改版2004年︶ISBN 9784003254714 →﹁全集2 訳詩編﹂大修館書店 ●﹁叡智﹂、河上徹太郎訳、芝書店︵1935年︶→ 新潮文庫︵復刊1994年︶ISBN 9784102171028 →﹁全集7 翻訳編﹂勁草書房 ●﹁ヴェルレーヌ詩集﹂、堀口大學訳、新潮社 世界詩人全集8︵1937年︶ → 新潮文庫︵改版2007年︶ISBN 9784102171011 →﹁全集3 訳詩編﹂小澤書店 ●﹁ヴェルレーヌ詩集﹂、野村喜和夫編訳、思潮社﹁海外詩文庫﹂︵1995年︶ 新書版 ●﹁呪われた詩人たち﹂、倉方健作訳、幻戯書房︿ルリユール叢書﹀︵2019年︶ ●主な伝記研究 ●﹃堀口大學全集5ヴェルレーヌ研究﹄ 小澤書店︵1983年︶ ●ピエール・プチフィス ﹃ポール・ヴェルレーヌ﹄、平井啓之・野村喜和夫訳、筑摩書房︵1988年︶ ●アンリ・トロワイヤ ﹃ヴェルレーヌ伝﹄、沓掛良彦・中島淑恵訳、水声社︵2006年︶ ●野内良三 ﹃ヴェルレーヌ 人と思想﹄ 清水書院 ︵1993年、新版2016年︶ 新書版歌曲[編集]
以下の作曲家がヴェルレーヌの詩をもとにした歌曲を残している。- エルネスト・ショーソン - 『4つの歌曲』から1篇、『ヴェルレーヌの2つの詩』から2篇
- 「安らぎ」op.13 (1885年)
- 「いと優しき歌」op.34 (1889年)
- 「不運な騎士」op.34 (1889年)
- ガブリエル・フォーレ - 『艶なる宴』から4篇、『言葉なき恋歌』から2篇、『優しき歌』から9編、他
- 「月の光」Op.46-2(1887年)
- 「憂鬱」op.51-3(1889年)
- 歌曲集『5つのヴェネツィアの歌』Op.58(1891年、5曲)
- 「マンドリン」「ひめやかに」「グリーン」「クリメーヌへ」「やるせない夢心地」
- 歌曲集『優しき歌』op.61(1891年 - 1892年、9曲)
- 「後光を背負った聖女」「暁の光は広がり」「白い月影は森に照り」「私はつれない道を歩む」「私は本当に恐ろしいほど」「暁の星よ、お前が消える前に」「それはある夏の明るい日」「そうでしょう?」「冬が終わって」
- 「牢獄」Op.83-1(1895年)
- クロード・ドビュッシー - 『艶なる宴』から9篇、『言葉なき恋歌』から6篇、『叡智』から3篇
- モーリス・ラヴェル - 『艶なる宴』から1編、『叡智』から1篇
- 「暗く果てしない眠り」(1895年)
- 「草の上で」(1907年)
肖像画[編集]
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1844-1877年
ギュスターヴ・クールベ画 -
1890年
ウジェーヌ・カリエール画 -
1892年
エドモン=フランソワ・アマン=ジャン画 -
1898年
エドゥアール・シャンタラ画
脚注[編集]
- ^ (Lycée Condorcet )
- ^ a b c ランボー殺害未遂で使用の銃、5260万円で落札 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News
- ^ 「パリの胃袋」として名高いムフタール通り (Rue Mouffetard) と繋がり、名門高校(リセ)のアンリ4世校の裏手にあるデカルト通り (Rue Descartes) 39番地にある。この建物は現在『ヴェルレーヌの家』と呼ばれるレストランになっているが、内装はヴェルレーヌ関係のものは一切なく映画俳優らの写真を並べたもので、価格も同じ通りのほかのレストランに倣い旅行者向けの手ごろな値段である。またこの建物の左隣には辻邦生が在住したと記した、ヴェルレーヌのものより一回り小さい記念プレートが掲げられている。