メリイクリスマス (小説)
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概要[編集]
初出 | 『中央公論』1947年1月号 |
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単行本 | 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房、1947年8月5日)[1] |
執筆時期 | 1946年12月初め~中旬(推定)[2] |
原稿用紙 | 20枚 |
作品の冒頭で、著者を思わせる語り手が﹁私はそれまで一年三箇月間、津軽の生家で暮し、ことしの十一月の中旬に妻子を引き連れてまた東京に移住して来たのであるが﹂と述べる。実際に太宰が家族と共に東京の上野駅に到着したのも1946年︵昭和21年︶11月14日夜であった。
シズエ子とその母のモデルは、林聖子と実母の秋田富子︵洋画家・林倭衛の夫人だった人︶。戦後の担当編集者の一人であった野原一夫は、短編﹁水仙﹂と﹁メリイクリスマス﹂は秋田富子への﹁清潔な愛情が生んだ作品である﹂と述べている[3]。
シズエ子と語り手の笠井が出会う場面も事実を元にしている。出版社勤務を経て、のちに新宿にバーを開く林聖子はそのときのことを自書で次のように回顧している[4]。
二十一年十一月初めの日曜日、私は駅前の三鷹書店を覗いた。有島生馬さんが父のことを書いた﹃ロゴス﹄を買おうと思ったのである。夕方の店内は、活字に飢えた人たちで一杯だった。店の人に﹃ロゴス﹄の所在を聞くため、一歩踏み出そうとしたとき、レジを離れようとしている男の人と向き合う形となった。私は魔法をかけられたようになった。﹃太宰さんの小父さん﹄といいかけて、あわてて﹃小父さん﹄の言葉を呑み込んだ。︵中略︶ それから半月ほどして、着物姿の太宰さんがわが家に来られた。そして、懐から﹃中央公論﹄新年号を取り出し、ひどく真面目な顔をして、﹃これは、ぼくのクリスマスプレゼント﹄といった。
また、太宰の妻の美知子もこう述べている[5]。
太宰は書簡を保存する習慣を持たない。にもかかわらず、このひき出しの一つには、数人の女性からの手紙が入っていた。歿後、整理したら、T子さんからの来信が一番多かった。太宰の﹃メリイクリスマス﹄は、T子さんとその娘S子さんのイメージから書いた小説だが、﹃メリイクリスマス﹄を書いた頃、T子さんは病床に在った。
あらすじ[編集]
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