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株式会社三笠書房︵みかさしょぼう、英: MIKASA SHOBO CO., LTD.︶は、東京都千代田区に本社を置く日本の出版社。
翻訳出版社として[編集]
1933年、翻訳者の竹内道之助により、海外文学の翻訳出版社として創業。
処女出版は﹃ドストイエフスキイ研究﹄(アンドレ・ジッド他著)。 ﹃ドストイェフスキー全集﹄ ﹃ヘルマン・ヘッセ全集﹄ ﹃ヘミングウェイ全集﹄﹃クローニン全集﹄ ﹃風と共に去りぬ﹄ ﹃赤毛のアン﹄[1] などを発行。特に﹃風と共に去りぬ﹄(大久保康雄訳・初刊は1938年)は、1949年、1950年の年間ベストセラー第3位にランクされるなど、300万部を超える大ベストセラーとなった。なお、映画の日本公開は1952年で、同年もベストセラー第7位に入っている。
﹃風と共に去りぬ﹄で得た莫大な利益によって、三笠文庫︵1951年創刊︶、﹃三笠版現代世界文学全集﹄︵全27巻、別巻4。1953年-1957年︶などを刊行している。
和書では創業の1933年に内田百閒の随筆﹃百鬼園随筆﹄を出版しており、その後も﹃阿房列車﹄など、たびたび百閒作品を刊行している。また、1938年に﹁マルスの歌﹂を掲載した﹃文学界﹄が発売禁止になり、大手ジャーナリズムから半ば締め出された石川淳の作品を、自社刊行の﹃文庫﹄などの雑誌に発表した。1939年の石川の長編小説﹁白描﹂、1941年の短編﹁張柏端﹂は三笠書房の雑誌が初出である。1941年には書き下ろし評論﹃森鴎外﹄も刊行した。
また、唯物論研究会と関係が深く、研究会が企画した﹃唯物論全書﹄のシリーズを弾圧後も引き受け、﹃三笠全書﹄として刊行していた。
自己啓発へ転換[編集]
放漫経営により1968年に2度目の[要説明]倒産危機に陥った折、会社再建への貢献を創業者の竹内に認められ、当時、一般社員だった現会長の押鐘冨士雄が営業部長に抜擢された。1973年には編集部長へ就任した[2]押鐘は、映画﹃未知との遭遇﹄の公開に合わせて原作本を出版し40万部を売り上げるなど、人気ドラマの小説化で債務を完済した手腕が評価され、1980年、代表取締役社長に就任した[2]。また、1975年には子会社扱いで﹁フランス書院﹂ブランドを設立し、官能小説の分野にも進出している。
この頃から主力だった翻訳文芸路線を放棄し、自己啓発本の発行を開始する[2]。
1981年には竹内が死去。1985年に押鐘が竹内の長男より株式を買い取ったことから、創業者一族である竹内家は同社から離れた。社屋も新宿区戸山から移転し、現体制となる。
これにより、本格的に自己啓発、生き方、ビジネス、経済、雑学、ハウツー、女性向け書籍などの路線へ転換した。そのため、同じ出版社でありながら、年代によってイメージが異なる出版社といえる。自己啓発の著名な書き手には渡部昇一や轡田隆史がいる。渡部はジョセフ・マーフィーについての出版には大島淳一のペンネームを使っている。
現在は﹁知的生きかた文庫﹂︵1984年創刊︶﹁王様文庫﹂︵2000年創刊︶を中心に、教養本や実用書の発行を多数手がけている。知的生きかた文庫は文庫化の版権に関連して、学校法人産業能率大学出版部と密接な関係にある。
2008年、押鐘冨士雄の息子、押鐘太陽が社長に就任した。
主な刊行物[編集]
●﹃風と共に去りぬ﹄ - 大久保康雄訳
●﹃赤毛のアン﹄ - 村岡花子訳。邦題は初刊刊行当時の編集者・小池喜孝が命名。
●﹃三笠版現代世界文学全集﹄
●﹃ドストイェフスキー全集﹄
●﹃ヘルマン・ヘッセ全集﹄
●﹃ヘミングウェイ全集﹄
●知的生きかた文庫
●王様文庫
●三笠文庫︵廃刊︶
所在地[編集]
東京都千代田区飯田橋三丁目3番1号