出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "中川久昭" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年9月) |
中川 久昭︵なかがわ ひさあき︶は、豊後岡藩の第12代藩主。
文政3年︵1820年︶4月4日、伊勢津藩主・藤堂高兌の次男として生まれる。天保11年︵1840年︶12月6日、第11代藩主・中川久教の死去により久教の養女・栄子の婿養子として跡を継ぎ、同年12月28日には従五位下、修理大夫に叙任された。
幕末の動乱の中で岡藩は尊王派の勢力が大きかったが、親徳川家の藤堂家から養子として入った久昭は天保12年︵1841年︶に柳井藻次郎、小河一敏ら尊王思想家を岡藩の中枢から排斥した︵岡藩七人衆の変︶。後に小河は真木保臣らと結託して寺田屋騒動にも関与し、久昭に対しても尊王を訴えたが、久昭は動乱を傍観するのみにとどまった。また、藩でも大火や風雨による被害が相次ぎ、藩財政は困窮した。
慶応4年︵1868年︶3月11日、上洛した。明治2年︵1869年︶2月18日、駿府への派兵の遅れから謹慎を命じられた。同年6月19日、版籍奉還を行い、知藩事に就任した。同年9月23日、隠居し、長男の久成に家督を譲った。明治22年︵1889年︶11月30日に死去した。享年70。
- 父:藤堂高兌(1781 - 1825)
- 母:高兌の侍女
- 養父:中川久教(1800 - 1840)
- 正室:豊子 - 加藤泰済の娘、中川久教の養女
- 長男:久成(1850 - 1897)
- 女子:栄子(1849 - 1922) - 細川行真正室のち小野鉄太郎室
- 女子:芳子(1853 - ?) - 稲葉正善正室
- 生母不詳の子女
- ^ 一部に没年を明治2年(1869年)とする資料(『三百藩藩主大辞典』)があるが、ここでは『日本人名大辞典』、『昭和新修 華族家系大成』、『明治過去帳 物故人名辞典』など複数の資料で書かれているものを採用した。明治2年という記載は誤記の可能性が高い。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
中川家 岡藩12代藩主 (1840年 - 1869年) |
---|
|