墨汁一滴
墨汁一滴︵ぼくじゅういってき︶は、石ノ森章太郎︵歴史的には1984年までのペンネーム表記は正しくは﹁石森章太郎﹂であり、その後にペンネームを変更して石ノ森章太郎とした。本名は小野寺章太郎。︶が創刊した漫画の同人誌。1953年から1960年にかけて10回発行された。命名は正岡子規の随筆にちなむ。
宮城県の石ノ森萬画館内には同名のグッズショップがあり、復刻版の﹃墨汁一滴﹄が販売されている。
概要[編集]
前史[編集]
石ノ森章太郎︵当時の筆名は石森章太郎、以下同様︶は、中学生時代︵1950年度 - 1952年度︶に近所の子ども達と﹁東日本漫画研究会﹂を結成。研究会誌として﹃墨汁一滴﹄を計画した。しかし、仲間の原稿が仕上がらない為、完成した﹃墨汁一滴﹄は石ノ森の作品が大部分を占めていた︵後に、﹁研究会誌ではなく個人誌﹂と述べている[1]︶。これは第2号で廃刊となった[2]。新スタート[編集]
スカウト[編集]
石ノ森は方針を転換。﹁近所の漫画好き︵読者︶﹂とではなく、﹁既に投稿家として活動している人物﹂と手を組む事を考える。﹃毎日中学生新聞﹄、﹃漫画少年﹄に投稿していた3名と連絡を取り、会員となる承諾を得た。3名とも青森県に住んでおり、彼ら同士の住所も近かった事に、石ノ森は驚きを感じている︵彼らの住居からは、馬場のぼるの生家も近かった︶[3]。公募[編集]
﹁会員が4名では、まだ少ない﹂と考えた石ノ森は、﹃漫画少年﹄で会員を募集する。100通以上の申し込みがきたが、その大半は東北地方の在住者ではなかった︵石ノ森は﹁東日本漫画研究会﹂とは明記したが、﹁会員は東日本在住者のみ﹂とは告知していなかった︶。その結果、全国規模への拡大を決意したものの、﹁肉筆回覧誌﹂︵﹁生原稿をそのまま綴じた物﹂を回覧する形態の同人誌︶という性質を考慮し、人数の制限を設定した︵理想は20名程度、上限は30名、と考えた︶。そこで、﹁入会希望者には作品を送らせ、その技術水準で会員に相応しいかどうか判断する﹂という入試を実施する︵落とされた中には、後年、漫画家となった人物も複数人いる[4]︶。新創刊︵1953年︶[編集]
高校1年の夏、石ノ森は﹃墨汁一滴﹄を新創刊する為、集まった原稿を手にして青森県の会員宅を訪問。2、3日で編集を済ませる予定だったが、十数日の滞在となる。編集された﹃墨汁一滴﹄創刊号は小包として郵送され、北海道の会員を皮切りに順次南下。九州の後で東京都に送られ、﹃漫画少年﹄編集部や手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄︵当時は同一ペンネーム︶らを巡り、批評を仰いだ[5]。翌年の春、手塚から電報でアシスタントを依頼されている。一時上京︵1955年︶[編集]
高校3年の夏、﹃墨汁一滴﹄を編集する為に一旦上京。東京の会員︵赤塚不二夫、長谷邦夫︶と会合し、学童社︵﹃漫画少年﹄編集部︶、手塚宅を訪問する[6]。トキワ荘時代︵1956年~︶[編集]
高校卒業後に上京、トキワ荘時代にも﹃墨汁一滴﹄は継続していたが、多忙の為、終了する。派生誌[編集]
墨汁二滴︵東日本漫画研究会女子部︶ 石ノ森ファンの少女2名の申し出と、﹃少女クラブ﹄編集者の仲介により、﹁東日本漫画研究会女子部﹂が発足。同部によって、少女漫画専門の﹃墨汁二滴﹄が創刊された[7]。同誌の執筆者は、西谷祥子、志賀公江、神奈幸子[注 1]など。 墨汁三滴︵ミュータントプロ︶ 名誉会長が石ノ森、名誉副会長が松本零士と久松文雄。彼らが西武池袋線沿線にまとまって住んでいたため、回覧・批評に便利だった。他に回覧批評を担当した漫画家は斎藤ゆずる、江波じょうじ、後に宮谷一彦も加わる。会長はひおあきら、会員は河あきら、細井雄二、ほしの竜一、小森麻実、など。 ﹃墨汁三滴﹄になる前の名は﹃ミュータントプロ﹄で、石ノ森の漫画﹃ミュータントサブ﹄から来ている。すがやみつるも参加希望してカットを送ったが、当初は絵が下手として不合格になった。その後下部組織として﹁ミュータントプロ・ジュニア﹂が作られ、規定に沿った作品を送れば参加可能とあったので、すがやも作品を描いて送ったが、応募したのがすがや︵当時高校一年生︶と中学三年の女性計二人しかおらず、ジュニアが発展的解消して二人とも﹃墨汁三滴﹄に編入となった[8]。 九州漫画展︵九州漫画研究会︶ 高井研一郎が﹁東日本漫画研究会﹂九州支部﹁九州漫画研究会﹂を結成[9]。松本零士、大野豊、井上智、内山安二とともに肉筆回覧誌﹃九州漫画展﹄を制作した[9]。こちらは﹃墨汁一滴﹄︵本部の︶第8号以前に会誌が出なくなっている︵会員が漫画家となり多忙な為、原稿が集まらなくなった︶。奇人クラブ版[編集]
岡田史子らが所属していた同人会﹁奇人クラブ﹂も、1966年頃から﹃墨汁一滴﹄という名の肉筆回覧誌を発行していた。石ノ森の﹃墨汁一滴﹄との関係は不明。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 大井夏代のインタビュー集p.39に、高校時代の神奈幸子も﹃墨汁二滴﹄参加していたとの記述。また当時西谷祥子がずば抜けて上手だったとも明記されている︵大井夏代﹃あこがれの、少女まんが家に会いにいく。﹄株式会社けやき出版、2014年4月8日、39頁。ISBN 978-4877515140。︶。
出典[編集]
(一)^ 石森章太郎 ﹃トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代﹄ISBN 978-4-06-183752-2 講談社︿講談社文庫﹀、1986年、32頁。
(二)^ 石森プロ Official Website|石ノ森章太郎|年譜参考。
(三)^ ﹃トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代﹄、33頁。
(四)^ ﹃トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代﹄、34-35頁。個々の氏名は明らかにされていない。
(五)^ ﹃トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代﹄、36-37頁。
(六)^ ﹃トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代﹄、44-46頁。
(七)^ ﹃トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代﹄、149頁。
(八)^ すがやみつるの雑記帳‥﹃仮面ライダー青春譜﹄第3章 マンガ家めざして東京へ(2)
(九)^ ab“漫画界の巨人たちが語る石ノ森章太郎像”. イーブックイニシアティブジャパン. 2013年9月3日閲覧。