少女世界
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/99/Sh%C5%8Djo_Sekai_first_issue.jpg/220px-Sh%C5%8Djo_Sekai_first_issue.jpg)
﹃少女世界﹄︵しょうじょせかい︶は、1906年︵明治39年︶に博文館が創刊した少女雑誌である[1]。1895年︵明治28年︶に創刊された﹃少年世界﹄の姉妹誌で、編集兼発行人は巖谷季雄︵巖谷小波︶が務めた。1906年︵明治39年︶より主筆に沼田藤次︵笠峰︶[2]。
第1期[編集]
最盛期には15万部から20万部近い発行部数で、創刊の1906年から10年間は最も売れた少女雑誌だったが、その後、﹃少女倶楽部﹄がこれを超え、最高部数は1937年︵昭和12年︶1月号の49万1,675部に達してしまう。他誌がピークを迎える前、1931年︵昭和6年︶12月号で最終号を迎えた。﹃少女世界﹄への投稿者の団体は﹁たかね会﹂で、森田たまが所属していた。文学作品[編集]
●川端康成 - ﹃薔薇の幽霊﹄︵昭和2年10月号、1927年︶ ●尾崎翠 - ﹃空気草履﹄﹃露の珠﹄︵1924年︶、﹃頸飾をたずねて﹄︵1925年︶ ●与謝野晶子 - ﹃金魚のお使﹄︵1907年︶、﹃巴里の子供﹄︵1913年︶ ●巖谷小波[3] ●北川千代 - ﹃絹糸の草履﹄︵1928年︶ ●尾島菊子 - ﹃母の家﹄︵1913年︶、﹃鶯の疵﹄︵1914年︶第2期[編集]
﹃少女世界﹄︵しょうじょせかい︶は、かつて存在した日本の少女雑誌である[4]。 1948年︵昭和23年︶11月、同年11月号を創刊号として、富国出版社が創刊、のちに編集・発行が少女世界社に移る。1953年︵昭和28年︶7月、同年7月号を最終号として、5年に満たない第2期を終えた。脚注[編集]
(一)^ 少女世界 (博文館)、国立国会図書館、2012年10月4日閲覧。
(二)^ “沼田藤次︵読み︶ぬまた とうじ”. コトバンク. 20191225閲覧。
(三)^ おとぎ話のおじさん逝く﹃東京日日新聞﹄昭和8年9月6日夕刊︵﹃昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年﹄本編p14 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶
(四)^ 少女世界 (富国出版社)、国立国会図書館、2012年10月4日閲覧。