山川黙
山川 黙︵やまかわ しずか、1886年7月26日-1966年2月21日︶は、日本の教育者。旧姓は河田。日本山岳会の創始者のひとり。
年譜[編集]
●明治19年︵1886年︶7月26日 東京府四谷区四谷信濃町生まれ。父は東京市助役を務めた河田烋[1]。河田烈は兄[1]。 ●明治37年︵1904年︶ 東京府立第一中学校卒業。 ●明治38年︵1905年︶日本山岳会の創立発起人となる[2] ●明治41年︵1908年︶ 山川操︵山川二葉、山川浩、山川健次郎、大山捨松の姉妹で小出光照の妻であり、昭憲皇太后の女官︶の養子[1]となり、山川姓を名乗る。 ●大正2年 ︵1913年︶ 東京帝国大学理学部植物学科を卒業[3]。 ●大正4年 ︵1915年︶昭憲皇太后の女官だった久世三千子︵子爵久世通章の庶子︶と結婚[4]。 ●大正6年 ︵1917年︶ 長男・重一誕生 ●大正11年 ︵1922年︶ 次男・重次誕生 ●大正13年 ︵1924年︶ 京北中学校︵現・東洋大学京北中学高等学校︶教諭、慶應義塾大学予科教授を経て、旧制武蔵高等学校教授就任[5] ●昭和17年︵1942年︶8月 - 昭和21年︵1946年︶2月 息子たちの母校でもある武蔵高等学校の四代目の校長を務める(叔父の山川健次郎は同校二代目校長)。会津会会員[6]。 ●昭和41年︵1966年︶2月21日死去︵享年79︶。山川三千子[編集]
妻三千子は、1892年に子爵・久世通章の長女として京都に生まれる。1909年より宮中に出仕、明治天皇、昭憲皇太后に仕え1914年に退官。翌年に山川黙と結婚、1965年に没。晩年﹃女官﹄︵実業之日本社 1960年︶を著した。︵新版﹃女官-明治宮中出仕の記﹄講談社学術文庫、2016年︶著書[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 『新稿 日本登山史』山崎安治・著(白水社・1986年1月31日発行)
- 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京編』(第13版)、1939年