岡西惟中
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岡西 惟中︵おかにし いちゅう、1639年︵寛永16年︶- 1711年12月5日︵正徳元年10月26日︶︶は、江戸時代前期から中期の俳人である。本姓は松永。名は勝、後に傭哉。字は赤子。通称は平太、別号に一時軒、竹馬童子等がある。
経歴・人物[編集]
因幡の鳥取に生まれる[1]。幼時から書道を学び、儒学を菊池東勻・檜川半融軒、漢詩を南源禅師、和歌を宮木孝庸・烏丸資慶・烏丸光雄、連歌を里村昌益に学ぶ[1]。14歳頃から俳諧に親しみ、万治1年刊﹃鸚鵡集﹄に入集[1]。その後、備中岡山に移り、書道学問での仕官を望むが失敗[1]。1669年︵寛文9年︶、西山宗因の門人となったとされ、談林派の論客として活躍した[1]。和漢の知識を駆使して、﹃しぶ団返答﹄﹃俳諧蒙求﹄﹃俳諧三部抄﹄﹃俳諧或問﹄﹃俳諧破邪顕正返答﹄﹃俳諧破邪顕正評判之返答﹄などの論難書を著した[1]。 談林派が全盛期だった1678年︵延宝6年︶に活動の場を大坂︵現在の大阪市︶に移し[1]、井原西鶴一門と共に宗因一門の双璧を成し遂げた。1682年︵天和2年︶に宗因が死去した後は俳諧の世界から離れ、古典講釈・漢詩・連歌に精力を傾けた[1]。主な著作物[編集]
俳諧関連 ●﹃俳諧蒙求﹄- 1677年︵延宝5年︶刊行。 ●﹃誹︵俳︶諧破邪顕正返答﹄- 1680年︵延宝8年︶刊行。 ●﹃近来俳諧風体妙﹄ ●﹃しぶ団返答﹄ ●﹃俳諧三部抄﹄ ●﹃俳諧或問﹄ ●﹃俳諧破邪顕正評判之返答﹄ 古典関連 ●﹃清少納言旁註﹄ ●﹃諸抄正誤徒然直解﹄ ●﹃和漢朗詠諺解﹄ ●﹃戊辰試毫﹄ その他- 『和漢千句独吟』
脚注[編集]
出典[編集]
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- デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『岡西惟中』- コトバンク
- 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)『岡西惟中』- コトバンク
- ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(ブリタニカ・ジャパン)『岡西惟中』- コトバンク
- 美術人名辞典(思文閣)『岡西惟中』- コトバンク