北条範貞
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(常盤範貞から転送)
北条 範貞︵ほうじょう のりさだ︶生年不明 - 正慶2年/元弘3年5月22日︵1333年7月4日︶は、鎌倉時代後期の武将。新田義貞の鎌倉攻略により、北条高時と共に自害した。和歌に優れており、勅撰和歌集に3首選定されている。常盤範貞︵ときわのりさだ︶とも呼ばれる︹常盤流北条氏︺。
来歴
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極楽寺流の支流・常盤流の当主で常葉範貞とも呼称される[1]。父は北条時範[2]、子に北条重高[3]がいる。母は不明で、生年も未詳だが、北条貞時が得宗家当主であった期間内︵1284年-1311年︶に元服し、﹁貞﹂の偏諱を受けたとみられる[4]。
嘉元2年︵1304年︶、従五位下、左近将監に叙位される。正和4年︵1315年︶、引付衆に任じられ幕政に参画する。翌5年︵1316年︶、従五位上に昇進。元応2年︵1320年︶には、評定衆に補充される。
元亨元年︵1321年︶、六波羅探題北方に任命され上洛し、元徳2年︵1330年︶、北条仲時と交替するまで9年間務めた。同年、帰還した鎌倉で三番引付頭人に就任した。この間、正中2年︵1325年︶に越後守、嘉暦3年︵1328年︶には正五位下、元徳元年︵1329年︶に駿河守に任ぜられている。
﹃太平記﹄によれば、正慶2年/元弘3年︵1333年︶の新田義貞による鎌倉攻めに際し、他の北条一族と共に自害して果てた︵東勝寺合戦︶[5]。同じく﹃太平記﹄には、北条貞将と共に六波羅探題留任の要請を謝絶したこと、謀叛の廉で捕らえられた二条為明への尋問を行い、為明の披露した歌を聞き、無実であると裁定を下して釈放したことなどが記されている。
尚、歌人でもあり、﹁続千載和歌集﹂、﹁続後拾遺和歌集﹂などの勅撰集にも三首歌が収録されている。
脚注
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(一)^ コトバンク_常葉範貞とは︵外部リンク︶、細川・2000年。
(二)^ ﹃尊卑分脉﹄。
(三)^ ﹃尊卑分脉﹄によれば、通称、越後三郎。範貞が越後守であったが故のものである。
(四)^ 範貞―重高と二代に亘り、貞時―高時の偏諱を受けたものとみられる。このような事例は北条氏庶流にはしばしば見られる。﹁北条氏による一字付与について﹂も参照のこと。
(五)^ ﹃太平記﹄巻10﹁高時幷一門以下於東勝寺自害事﹂。