東勝寺合戦
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東勝寺合戦 | |
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東勝寺の旧寺城 | |
戦争:鎌倉の戦い(元弘の乱) | |
年月日:(旧暦)元弘3年5月22日 (ユリウス暦)1333年7月4日 | |
場所:相模国鎌倉東勝寺(現在の鎌倉市東勝寺跡) | |
結果:北条一族の自害、鎌倉幕府の滅亡 | |
交戦勢力 | |
後醍醐天皇方 | 鎌倉幕府 |
指導者・指揮官 | |
新田義貞 | 北条高時 |
戦力 | |
一説には25万人 (『太平記』では60万人) | 870余人[1] |
損害 | |
壊滅 | |
東勝寺合戦︵とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年︵元弘3年、正慶2年︶に相模国鎌倉︵現在の鎌倉市︶で行われた戦い。1331年︵元弘元年、元徳3年︶から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いである。北条氏が率いる鎌倉幕府はこれに負け滅亡した。
鎌倉幕府得宗の北条高時と一族の北条氏は、最後は討幕軍に包囲され鎌倉の東勝寺に籠り、自刃した。共に自刃した主な人々は、北条氏には常盤範貞、金沢貞顕、大仏家時ら。文士に摂津親鍳・高親父子。外様に安達時顕らがいる。
東勝寺[編集]
詳細は「東勝寺 (鎌倉市)」を参照
東勝寺は、第3代執権の北条泰時が退耕行勇︵たいこうぎょうゆう︶を開山として葛西ヶ谷︵鎌倉市小町︶に創建した北条氏の菩提寺である。
腹切りやぐら
東勝寺跡の北方には﹁腹切りやぐら﹂と呼ばれるやぐらが存在している。発掘調査では、三つ鱗の入った瓦などが見つかったものの遺骨の発見はなく、新田勢や時宗の僧らによって遺体が処理されたと考えられている。﹃太平記﹄によると、北条高時に続いて﹁名越の一族三十四人、赤橋、常盤、佐介の人々四十六人、その門葉たる人々二百八十三人、われ先にとぞ切りたりける﹂とあるが、常盤家の自害については記録が詳しく残っておらず、東勝寺で滅亡したかは定かではない。腹切りやぐらは、その名称から東勝寺での戦死者と何らかの関係があるとされていて、今でも供養会では卒塔婆が立てられる。ただ、高時の首塚を伝えるやぐらは各所に存在する。
鎌倉でのこの戦闘の後、この地で死んだ北条一族を弔うため、足利尊氏によって宝戒寺が建てられた。宝戒寺の地は、もとの北条得宗家邸の地である。
鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷奥山頂部には、﹁宝戒寺二世普川国師入定窟﹂と伝える巨大なやぐらを中心に、﹁釈迦堂奥やぐら群﹂と称する多数のやぐら群が存在した。やぐら群にはかつて多量の生焼けの人骨があり、昔から東勝寺での遺体をこのやぐら群に葬ったとの伝承があった。昭和40年代の宅地開発の際にやぐらが破壊され、﹁元弘三年五月廿八日﹂の銘のある五輪塔の一部が発見された。まさに東勝寺合戦の初七日の供養を示すものであり、伝承が事実であったことがわかった。