慈延
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慈延︵じえん、寛延元年︵1748年︶- 文化2年7月8日︵1805年8月2日︶︶は、江戸時代中期から後期にかけての天台宗の僧・歌人。父は儒医兼漢学者・塚田旭嶺︵室鳩巣門下︶。兄は、尾張藩明倫堂の督学︵校長︶を務め﹁寛政の五鬼﹂と称された儒学者・冢田大峯。字は大愚。号は吐屑庵。
生涯[編集]
信濃国水内郡長野村桜小路︵現・長野県長野市桜枝町︶で五男として生まれる。父から儒学を学び、母から和歌の手ほどきを受けた。母・千賀子の育った松代は、賀茂眞淵の門人・大村光枝が来て和歌を盛んにし、﹁松の百枝﹂という百人一首ができるほどであった。[1] 比叡山に登って天台宗の教理を学び、僧となって延暦寺一門の円教院住職となる。しかし、幼い頃に親しんだ和歌の道が忘れられず、冷泉為村に師事して歌道に励んだ。そして和歌に専念するため、洛東岡崎の明真寺に隠棲した。[1] 歌人としては、小沢蘆庵・澄月・伴蒿蹊とともに平安和歌四天王の一人に数えられた。和歌四天王の歌風を論じた橘南渓の﹃北窓瑣談﹄に僧慈延が歌学・儒学に通じて、その学殖が優れていることを高く評価して、﹁新しく・面白くよみて、歌学に漢学を兼備へて、実にこの道の宗匠なり﹂記されている。[1] 文化2年︵1805年︶58歳で入寂し、京都岡崎の明真寺に葬られた。経石を奉納した法華塔が建てられている。[1]主著[編集]
- 『三槐和歌類』
- 『隣女晤言』
- 『慈延和歌聞書』
- 『廿一代集概覧』
- 『堀川院初度百首抄』
参考文献[編集]
- 『長野県史 通史編 第6巻 近世3』