文芸倶楽部
文芸俱楽部 | |
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水野年方 画 | |
ジャンル | 文芸雑誌 |
刊行頻度 | 月刊 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
出版社 | 博文館 |
発行人 | 堀野賢龍(創刊時) |
編集長 |
宮沢春文・三宅青軒・田村松魚・ 石橋思案・森暁紅・森下雨村 |
刊行期間 | 1895年1月 - 1933年1月 |
発行部数 | 30,000部(1897年頃三宅青軒[1].調べ) |
文芸俱楽部︵ぶんげいくらぶ、旧字体‥文󠄁藝俱樂部︶は、1895年︵明治28年︶1月から1933年︵昭和8年︶1月まで、博文館が出版した文芸雑誌。純文学誌として出発したが、大正期以降、大衆化した。
歴史[編集]
博文館の既刊の、﹃世界文庫﹄﹃明治文庫﹄﹃逸話文庫﹄﹃文芸共進会﹄﹃春夏秋冬﹄が統合して、この雑誌になった。 博文館はこのとき、﹃日本商業雑誌﹄﹃日本大家論集﹄﹃日本農業雑誌﹄﹃日本之法律﹄﹃婦女雑誌﹄を﹃太陽﹄誌に、﹃日本之少年﹄﹃幼年雑誌﹄﹃学生筆戦場﹄﹃少年文学﹄﹃幼年玉手箱﹄を﹃少年世界﹄誌にまとめた。﹃太陽﹄が総合雑誌、﹃文芸俱楽部﹄が文芸雑誌、﹃少年世界﹄が少年雑誌という3本立てだった。 創刊時は、菊判、約240ページ。硯友社系の小説と豪華な挿画とを﹃売り﹄にした。 歴代の編集者は次。 ●宮沢春文‥1895年1月から1897年8月まで。 ●三宅青軒‥1897年9月から1902年11月まで。 ●田村松魚‥1901年1月から1902年11月まで。 ●石橋思案‥1902年12月から1916年9月まで。 ●森暁紅‥1923年 - 1924年頃。 ●森下雨村‥1927年から。1931年退社。 前から博文館は、尾崎紅葉・広津柳浪・石橋思案・川上眉山・江見水蔭・大橋乙羽・巖谷小波・徳田秋声・泉鏡花・武内桂舟らの硯友社と親しく、リーダーの紅葉の斡旋で、柳浪は博文館の元社員、小波は社員、水蔭と桂舟は準社員。そして乙羽は館主大橋佐平の婿だった。従って、先ず彼らが小説などを書いていた。泉鏡花はこの雑誌から世に出た。 その後、幸田露伴・田山花袋・国木田独歩・樋口一葉らも小説を書いた。一葉は、文学界に連載した﹃たけくらべ﹄を、この雑誌に一括掲載して、文名を確かにした。 挿画は、日清戦争の報道で網目銅板写真の技術を磨き、また、梶田半古、武内桂舟・水野年方・富岡永洗・尾形月耕・鏑木清方らの木版画で誌面を飾り、芸者や役者の肖像で目を引いた。 第2次新小説と、文芸雑誌の横綱を張っていたが、1903年︵明治36年︶秋に尾崎紅葉が没し、硯友社は解散した。島崎藤村の﹃破戒﹄︵1906年︶や田山花袋の﹃蒲団﹄︵1907年︶など、自然主義文学が台頭して、第2次﹃早稲田文学﹄や中央公論が勢いつき、﹃文芸倶楽部﹄は大衆化へと路線を変えた。 1907年︵明治40年︶頃から、講談や落語を載せるようになり、大正期に入って大衆向け娯楽雑誌の色彩を濃くした。岡本綺堂の﹃半七捕物帳﹄を1918年1月から1926年12月まで連載した。1927年︵昭和2年︶、森下雨村の編集になってからは、松本泰・小酒井不木・森下雨村・延原謙・保篠龍緒・甲賀三郎・江戸川乱歩・大下宇陀児・濱尾四郎・水谷準らの探偵小説も載せた。掲載文芸作品︵抄︶[編集]
脚註[編集]
出典[編集]
- 坪谷善四郎:『博文館五十年史』、博文館(1937)
- 柳田泉:『明治大正期文芸雑誌の変遷』(『随筆 明治文学 1』、平凡社 東洋文庫741(2005)所収)
- 石丸久:『文芸俱楽部』(「新潮日本文学辞典 増補改訂版」p.1097)
参考図書[編集]
- 日本近代文学館編:『文芸俱楽部総目次・執筆者索引』、DVD版近代文学館7(2005)ISBN 9784840600385
外部リンク[編集]
- 『博文館五十年史』 (PDF)
- 『「文芸俱楽部」とは』
- 文芸俱楽部 明治篇 総目次・執筆者索引
- 石橋思案・巌谷小波筆の創刊号の序文と、末期の探偵小説の表 - ウェイバックマシン(2003年7月2日アーカイブ分)
- 『半七捕物帳』掲載誌の表