李グウ
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|
雲峴宮 李鍝公 | |
---|---|
![]() 李鍝 | |
続柄 | 李堈第二男子(高宗孫) |
全名 | 李 鍝(이 우) |
称号 |
成吉(初名) 念石・尚雲(雅号) |
身位 | 公 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1912年11月15日![]() |
死去 |
1945年8月7日(32歳没)![]() |
埋葬 | 雲峴宮 家族墓地 |
配偶者 | 朴賛珠 |
子女 | 李淸、李淙 |
父親 | 李堈公 |
母親 | 金興仁 |
軍歴 | |
忠誠 |
![]() |
所属組織 |
![]() |
服務期間 | 1933年 ~ 1945年 |
階級 |
![]() ![]() |
主な戦歴 | 大東亜戦争 |
叙勲 | 下記#栄典を参照 |
李鍝︵り ぐう、イ・ウ、ハングル: 이 우、1912年11月15日 - 1945年8月7日︶は、李王家の一族で、日本の公族。陸軍大学校卒。大日本帝国陸軍中佐︵教育参謀︶。広島へ投下された原爆の爆心地から710mの地点で被爆、翌日に逝去した。
父は大韓帝国皇帝高宗の五男李堈。母は側妾の金興仁。純宗、李王垠の甥に当たり、李鍵︵桃山虔一︶は異母兄、李海瑗は異母妹、李錫は異母弟、李源は甥。初名は成吉、雅号は念石・尚雲[1]。
生涯[編集]
日本統治時代の朝鮮で京畿道京城府沙洞宮に生まれる。幼少期は鐘路小学校尋常科に通学し、運動が好きで活発な少年だった[2]。そして、ことのほか馬術を愛好していた[2]。 1917年に興宣大院君の孫︵父・李堈の従兄︶で、父李熹から公位を継承していた李埈公が急逝した。そのため5歳の時に養子となり、雲峴宮の第4代宗主と公位を継承[3]、薨去まで﹁李鍝公殿下﹂と呼ばれるようになる。 1922年︵大正11年︶に日本へ渡って学習院初等科に入学。1925年︵大正14年︶9月、居所を東京府豊多摩郡渋谷町下渋谷常磐松︵後の常磐松町︶に移転[4]。その後陸軍中央幼年学校に入学。在学中は、幼少からの婚約者朴賛珠︵朝鮮貴族朴泳孝侯爵の孫娘︶から送られた手紙を、同期生が奪い取って読もうとした逸話が残っている[5]。1933年︵昭和8年︶に陸軍士官学校︵45期︶を卒業し、野戦重砲兵科に進んだ。この間、1932年︵昭和7年︶に成年を迎え、篠田治策の後見から外れる[6]。 1935年︵昭和10年︶5月3日、朴賛珠と結婚する[7][注釈 1]。妃賛珠との間に二男︵李淸、李淙︶を儲けた。 1941年︵昭和16年︶に陸軍大学校︵54期︶を卒業した[3]。 1945年8月6日、広島に置かれた第二総軍の教育参謀︵陸軍中佐︶であった李鍝は、馬に乗って司令部への出勤途中、福屋百貨店︵爆心地から710m︶付近で広島県県に対する原爆投下に被爆した。鍝は被爆後もそのまま西方へ馬を飛ばしたが、最終的に力尽きて本川橋西詰︵橋桁の下とも︶で抜いたサーベルを手にしたままうずくまっていた。そこを同日夕刻に捜索隊に発見され、ただちに市内似島の病院に収容された。翌7日午前5時5分に死亡した[10][3]。公位は嫡男の李清が継承した[11]。﹃官報﹄には、その死を﹁広島ニテ作戦任務御遂行中空爆ニヨリ御負傷同七日戦死セラレタリ﹂としている[12]。 御附武官の吉成弘中佐は、本来なら鍝に同行しているところ、偶然水虫のため一足早く第二総軍司令部に出勤し、そこで鍝を待っていたため、被爆死を免れた。しかし副官として自責の念に駆られ、鍝の死の直後にピストルで自決した。病床に就ききりでいた吉成を、瀕死の鍝は﹁お前の方は、体は大丈夫か﹂と気遣ったと言う。死後、鍝は陸軍大佐に昇進した。亡骸は11日までに輸送機で朝鮮京城府鐘路区雲泥町の李鍝公邸に帰着した[12][3]。昭和天皇・香淳皇后・皇太后は弔問のため使者を李鍝公邸に派遣した[12]。8月15日、京城の京城運動場で葬儀が行われ、墓所は京畿道楊州郡和道而倉峴里︵現楊州市︶とされた[13]。慰霊碑と南北対立[編集]
原爆で死亡した朝鮮人を悼み、韓国人原爆犠牲者慰霊碑が1970年4月10日に建設された。慰霊碑の場所は李鍝が発見された本川橋の西詰めに建立された。設置場所は単に彼の発見場所が平和記念公園の向こう岸だったので、1980年代から﹁︵平和記念公園の外に設置されているのは︶差別のためだ﹂との誤解が生じた[14][15]。 その後、北朝鮮を支持する朝鮮総聯と韓国を支持する民団が慰霊碑の﹁韓国人﹂という表現を﹁朝鮮人﹂にすべきと揉めた。他にも﹁南北統一碑﹂とする案があったが、文言などの調整がつかなかった[14]。最終的に慰霊碑の表記は﹁韓国人﹂となり、1999年に平和公園内︵かつての慈仙寺跡地付近︶に移設された。栄典[編集]
1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章[16]
1933年(昭和8年)10月20日 - 勲一等旭日桐花大綬章[17]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[18]
1943年(昭和18年)11月7日 - 大勲位菊花大綬章[19]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ 金乙漢 (2010-08-15). 조선의 마지막 황태자 영친왕. 페이퍼로드. p. 58. ISBN 978-89-92920-45-2
(二)^ ab三井兵治 編﹃朋友︵ポンユウ︶﹄東京新進堂、1922年、167頁。︵NDLJP:970239/139︶
(三)^ abcd“コーナーl金曜ステーション l KBS WORLD Japanese”. world.kbs.co.kr. 2023年7月31日閲覧。
(四)^ ﹃官報﹄第3916号﹁宮廷録事﹂、大正14年9月11日︵NDLJP:2956065/3︶
(五)^ わが武寮 1982 p.584-585
(六)^ ﹃官報﹄第1766号﹁彙報﹂、昭和7年11月17日︵NDLJP:2958237/5︶
(七)^ 昭和10年宮内省告示第11号、︵﹃官報﹄第1766号、昭和10年5月4日︶︵NDLJP:2958977︶
(八)^ ﹃官報﹄第2498号﹁敍任及辭令﹂︵昭和10年5月4日︶︵NDLJP:2958977/4︶
(九)^ ﹃官報﹄第5509号﹁叙任及辞令﹂昭和20年5月28日。p.219
(十)^ 昭和20年宮内省告示第20号、︵﹃官報﹄第5574号、昭和20年8月11日︶︵NDLJP:2962075/3︶
(11)^ 昭和20年宮内省告示第21号、︵﹃官報﹄第5574号、昭和20年8月11日︶︵NDLJP:2962075/3︶
(12)^ abc﹃官報﹄第5574号﹁宮廷録事﹂、昭和20年8月11日︵NDLJP:2962075/3︶
(13)^ 昭和20年宮内省告示第22号、︵﹃官報﹄第5592号、昭和20年9月1日︶︵NDLJP:2962094/7︶
(14)^ ab“韓国人原爆犠牲者の慰霊碑 | 中国新聞デジタル”. 韓国人原爆犠牲者の慰霊碑 | 中国新聞デジタル (2023年5月9日). 2023年7月31日閲覧。
(15)^ “韓国人原爆犠牲者慰霊碑 | 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター”. www.hiroshimapeacemedia.jp. 2023年7月31日閲覧。
(16)^ ﹃官報﹄第849号、﹁叙任及辞令﹂1929年10月28日。p.672
(17)^ ﹃官報﹄第2043号﹁叙任及辞令﹂1933年10月21日。p.497
(18)^ ﹃官報﹄第4438号・付録﹁辞令二﹂1941年10月23日。
(19)^ ﹃官報﹄第5048号﹁叙任及辞令﹂1943年11月9日。p.197
参考文献[編集]
- 東幼史編集委員会『東京陸軍幼年学校史 わが武寮』東幼会、1982年10月。
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- 山田風太郎 『同日同刻:太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』(ちくま文庫、2006年 ISBN 4480422471)