松林伯圓
松林 伯圓︵しょうりん はくえん、新字体‥伯円、また﹁松林﹂は﹁まつばやし﹂とも︶は、講釈師の名跡。
初代[編集]
初代 松林亭 伯圓︵しょだい しょうりんてい はくえん、1812年︵文化9年︶ - 1855年11月11日︵安政2年10月2日︶︶。本名は堀川源次郎。初代 | |
本名 | |
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生年月日 | 1812年 |
没年月日 | 1855年11月11日 |
死没地 | 江戸・本所小梅町 |
師匠 | 初代神田伯龍 |
家族 | 堀川嘉兵衛(父) |
江戸南伝馬町の軍談の席亭堀川嘉兵衛の子。軍談物、世話物を得意とし、一流亭文車と拮抗して人気を得た。晩年中風になり安政の大地震︵安政江戸地震︶で本所小梅にあった自宅で静養中に圧死した。
妻は仙石騒動の仙石久寿の嫡出の子。
2代目[編集]
二代目 松林 伯圓︵にだいめ しょうりん はくえん、1834年7月8日︵天保5年6月2日︶ - 1905年︵明治38年︶2月8日︶。本名ははじめ手島達弥のちに若林義行から若林駒次郎。名人とも言われ、明治初期にかけて大いに人気があった。2代目 | |
本名 | 手島達弥 若林義行 若林駒次郎 |
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別名 | 泥棒伯圓 |
生年月日 | 1834年7月8日 |
没年月日 | 1905年2月8日(70歳没) |
出身地 | 現在の茨城県 |
師匠 | 伊東潮花 琴調馬琴(二代目東流斎馬琴) 初代松林亭伯圓 |
弟子 | 3代目松林伯圓 初代大島伯鶴 初代悟道軒圓玉 |
名跡 | 1.宝井調林(? - 1854年) 2.2代目松林伯圓(1854年 - 1901年) 3.2代目松林東玉(1901年 - 1905年) |
活動期間 | ? - 1905年 |
活動内容 | 講談師 |
主な作品 | |
新聞講談 | |
生涯[編集]
下館藩︵現在の茨城県︶郡奉行手島助之進の四男に生まれ、幕府作事奉行若林市左衛門の養子となる。後に彦根藩画師向谷石渓の養子となり、井伊家の江戸下屋敷に住むが、講釈好きが高じて離縁になる。伯母の婚家、若林家に引き取られ、町奉行筒井伊賀守邸などへ講釈に赴く。間もなく伊東潮花の門下になり講釈場で働き花郷、20歳の時に琴調馬琴︵二代目東流斎馬琴︶門下となり調林と名乗って高座へ出た。その後初代伯圓の芸養子になり、1854年︵嘉永6年︶に初代伯圓死去のため二代目襲名。安政頃に遊びがすぎて喰いつめて、知古であった四代目市川小團次のところに転がり込み、その紹介で寄席へ出て﹁小猿七之助﹂などを語って評判となる。﹁鼠小僧﹂﹁業平小僧﹂﹁天狗小僧﹂﹁獄門初の助﹂﹁鬼神のお松﹂などの白浪物を得意としたため、﹁泥棒伯圓﹂の異名をとる。
1873年︵明治6年︶に浅草寺境内にて新聞訓読場︵今でいう図書館新聞閲覧所コーナー︶が新設されたのでそこで新聞記事を元にした新聞講談を始め、福沢諭吉の演説を見てから散切り頭でテーブル、椅子を用意し、時には洋服を着て講談を読むなど新しいことにも挑戦、﹁新聞伯圓﹂とも呼ばれた。﹁正史講談﹂と称して、1874年に佐賀の乱が起こるとこれを﹁佐賀伝法録﹂として、1875年には﹁近世史略﹂、76年﹁開花新話谷の鶯﹂﹁照忠奇談﹂、77年には西南戦争の従軍記者だった犬養毅の速報を読み、78年﹁明治功臣録﹂、80年には藤田組の偽札事件の話、81年に神風連の話、82年に朝鮮事件︵壬午事変︶の話などで大いに人気となり、東京、大阪、名古屋など各地で大入り満員、伯圓は開花講談師、文明社会の大先達といった賛辞を得た。また1879年に﹁西洋新未来記﹂、80年に﹁世界旅行名誉の新話﹂など、欧米諸国と日本の落差を平易に語ることも始める。
自由民権運動が盛んになり、民権講談が生まれると伯圓も時勢に応じて、小室信介﹃東洋民権百家伝﹄の文殊九助や、﹃山県大貳順天録﹄、藤田茂吉﹃文明東漸史﹄の高野長英などを講じた。そこに明治政府は1885年に東京神道事務局より﹁大講義﹂の肩書で、民衆を教化する教導師の地位を与えた。伯圓は講談家たちに呼びかけて、浅草で﹁国民精神振興講談大会﹂を開催、菊池容斎﹃前賢故実﹄や、忠臣孝子列伝、新聞の社会・政治記事などを語った。また警察の民権運動への圧力は寄席にまで及んだが、伯圓はその後も民権的題目を演じ、警視庁に召喚される。明治憲法発布からは伯圓も軟化し、1892年には鍋島邸で明治天皇への御前講演を行い、﹁赤穂義士伝﹂﹁豊太閤桃山談﹂﹁楠公﹂を語った。
1901年︵明治34年︶に舞台で卒倒し、弟子の右圓に伯圓の名を譲って、横浜鶴見の総持寺のほとりに隠退、二代目松林東玉を襲名。1905年、中風のため死去[1]。