武居邦生
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基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 福岡県飯塚市 |
生年月日 | 1956年4月27日(68歳) |
身長 体重 |
181 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ・監督歴 | |
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この表について
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武居 邦生︵たけすえ くにお、1956年4月27日[1] - ︶は、福岡県飯塚市[2]出身の元アマチュア野球選手︵内野手︶、野球指導者、スカウト。右投右打。
来歴・人物[編集]
九州工業高等学校では投手として活躍していた。1974年の県北部予選3回戦では松浦正らがいた小倉工業高校に敗れ、甲子園への出場を果たすことができなかった。 高校卒業後は国士舘大学に進学し一塁手に転向[3]。東都大学野球リーグでは、1学年下のエース片岡大蔵を擁し1977年春季リーグ二部優勝。入替戦で日大を破り、初の一部昇格を果たす。しかし優勝には届かず、1978年秋季リーグの3位が最高成績であった。ベストナイン︵一塁手︶2回選出。大学同期に外野手の高柳秀樹らがいた。 大学卒業後は日本楽器に入社、一塁手として長く活躍する。1980年の都市対抗では、大昭和製紙の補強選手として出場。4番打者に抜擢され、1回戦でトヨタ自動車から2点本塁打を放つ。杉本正の好投もあって決勝に進み、札幌トヨペットを降し優勝。同年の社会人ベストナインに選ばれた[4]。同年の第26回世界アマチュア野球選手権大会日本代表にも選出され[5]、2日目のコロンビア戦では、8回に3点本塁打を放った[6]。1981年の第5回インターコンチネンタルカップ日本代表、1982年の第27回世界アマチュア野球選手権大会日本代表にもなり、1982年には社会人ベストナインに再度選ばれた。1986年の都市対抗の2回戦では、NTT信越から個人通算10本目の本塁打を放ち、特別表彰を受ける[3]。1988年の都市対抗では10年連続出場の表彰を受けた。引退後はコーチを務める。 1992年から2005年までに母校の国士舘大学の監督を務めた[7]。在任中は1994年秋から一部リーグに昇格し、当時の選手では厚澤和幸、鷹野史寿、古城茂幸がプロ入りした。 2007年から2021年まで横浜ベイスターズ︵2012年から横浜DeNAベイスターズ︶のスカウトを務め、山﨑康晃、今永昇太、上茶谷大河、柴田竜拓、楠本泰史ら22人の選手を担当した[8][7][9]。 DeNAスカウト勇退後は、2022年より新たに始動するプロ野球独立リーグ・日本海オセアンリーグに招聘され、運営事務局スカウト統括部長に就任[10]。2023年より日本海オセアンリーグが改組改称したベイサイドリーグでもスカウト部長を務めた[11]。脚注[編集]
(一)^ 神宮球場ガイドブック1994秋号 ベースボールマガジン社
(二)^ “DeNAの﹁山崎・今永﹂担当敏腕スカウト、武居氏が勇退 今後は未定”. スポーツニッポン (2021年11月9日). 2021年12月13日閲覧。
(三)^ ab﹁日本社会人野球協会会報1986﹂日本社会人野球協会 1987年
(四)^ ﹁日本社会人野球協会会報1980﹂日本社会人野球協会 1981年
(五)^ 1980年7月29日 読売新聞 朝刊 p19
(六)^ 1980年8月24日 読売新聞 朝刊 p16
(七)^ ab“DeNA武居邦生スカウトが勇退 山崎康晃、今永昇太、上茶谷大河らを発掘”. 日刊スポーツ (2021年11月9日). 2021年12月13日閲覧。
(八)^ 2008年9月3日 毎日新聞 朝刊(東京) p19
(九)^ “山崎、今永ら発掘の﹁父﹂ 名スカウト武居邦生さんの足跡”. カナロコby神奈川新聞. (2021年12月31日) 2022年5月25日閲覧。
(十)^ “新発足の日本海オセアンリーグ、DeNA山崎ら担当スカウトの武居氏招へい - アマ野球”. 日刊スポーツ. (2021年12月5日) 2022年5月25日閲覧。
(11)^ ベイサイドリーグ [@BSL_indyball] (2023年1月25日). "リーグ運営体制について". X︵旧Twitter︶より2023年1月25日閲覧。