淡島寒月
淡島 寒月︵あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎︵ 安政6年10月23日︵1859年11月17日︶ - 1926年︵大正15年︶2月23日︶は、明治時代の日本の作家、画家、古物収集家。父親は画家の淡島椿岳[1]。長女は教育者・政治家の木内キヤウ︵公立小学校校長となり第1回参議院議員選挙で参議院議員ともなった︶。幕末の大富豪の伊藤八兵衛は伯父、その娘で渋沢栄一の後妻になった兼子は従姉にあたる。
広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴や尾崎紅葉などとともに文壇に紹介したエピソードで有名である。
収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。
略歴[編集]
日本橋馬喰町4丁目に生まれる。淡島家の家業は軽焼きの名店淡島屋であり、非常に裕福であった。父親の椿岳には160人の愛妾がいたという。 1870年、福澤諭吉を読んで西洋文化に興味を持つようになり、英語を勉強し洋間に住んだ。頭髪に灰汁をかけて染髪までしていた。寒月は西洋文明への憧れのあまり、アメリカに帰化しようと願う。向こうで日本のことを聞かれると思い、日本文化を研究し始めた。 1880年、湯島聖堂の図書館に通い、草双紙を毎日写本する。このとき山東京伝を読んで西鶴のことを知る。 1887年頃、文学者の露伴や紅葉らと知り合い、西鶴を紹介する。このことが明治における西鶴再評価に繋がった。 1893年、前々年から雑誌や新聞への寄稿を止め、向島の梵雲庵で隠居生活に入る。このころキリスト教の洗礼を受ける。しかし、これは宗教観からというよりは、外国の文化に接するためであったと、後に述懐している。 1923年9月1日、関東大震災により、梵雲庵全焼。収集物を全て失う。12月、梵雲庵再建。 1926年2月23日、66歳で死去。駒込の染井霊園に葬られた。著作[編集]
●﹃寒月翁画翰集 文画三昧﹄新野亮太郎、1922年12月。NDLJP:935951。 ●阿部採果 編﹃寒月余影﹄平沢勘吉、1927年3月。 ●﹃梵雲庵雑話﹄延広真治解説、岩波書店︿岩波文庫﹀、1999年8月。ISBN 9784003115916。 ●﹃梵雲庵雑話﹄紅野敏郎解説、平凡社︿東洋文庫 658﹀、1999年8月。ISBN 9784582806588。脚注[編集]
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 66頁。