渡辺大剛 (冒険家)
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渡辺 大剛 (わたなべ はるひさ) | |
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生誕 |
1981年8月25日 静岡県周智郡森町三倉 |
死没 |
2012年12月26日(31歳没) ロシア連邦カンダラクシャ市郊外 |
死因 | 交通事故 |
国籍 |
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職業 | 冒険家、登山家 |
著名な実績 | 七大陸最高峰登頂日本人最年少 |
公式サイト | Official Web Site |
渡辺 大剛︵わたなべ はるひさ、1981年︵昭和56年︶8月25日[1] - 2012年︵平成24年︶12月26日[2]︶は、日本の冒険家、登山家である。22歳292日で達成した七大陸最高峰登頂は日本人の中では、2番目に若い記録である。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/88/%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91%E5%85%A8%E4%BD%93.JPG/220px-%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91%E5%85%A8%E4%BD%93.JPG)
2013年9月にムルマンスク州カンダラクシャ市南部に建てられた、 渡辺の慰霊碑。生前よく登った富士山をモチーフにしたモニュメント︵ステンレス製︶と、石碑からなる。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/88/%E7%9F%B3%E7%A2%91%E6%8B%A1%E5%A4%A7.JPG/220px-%E7%9F%B3%E7%A2%91%E6%8B%A1%E5%A4%A7.JPG)
石碑にはサンクトペテルブルク州郊外の国道M-18上で撮影した渡部 の写真、個人データ、渡辺の﹁あの山の向こうには何が見えるんだろう、あの山に登ったらどんな気持ちだろう。﹂という言葉が日本語とロシア語で刻まれている。
静岡県周智郡森町出身[2]。磐田東高等学校に入学[3]。高校2年の冬、自転車で単独日本縦断︵静岡〜四国〜岡山︶をした[4]。九州産業大学芸術学部写真学科に入学後、山岳部に在籍し、本格的に登山を始めた[1]。2002年、シルクロードを旅し、ヘルディンに日本人として初めて登頂した[4]。
世界各地を巡る旅をしていた同年9月、アフリカ最高峰のキリマンジャロに登頂したのを機に、七大陸最高峰登頂を目指すようになり、2003年には、2月に南米アコンカグア、6月に新欧州エルブルース、旧欧州モンブラン、同7月にオセアニアコジウスコと立て続けに登頂した[1]。6月に挑戦したアジアエベレストは、山頂へのアタック前の脱水症状と強風のために断念した[1]。2004年には、1月に南極ビンソンマシフ、5月に2度目の挑戦でエベレストに登頂した[5]。
2004年6月12日、北米マッキンリーに登頂し、七大陸最高峰への登頂を、2002年に東京大学の山田淳がたてた日本人最年少記録23歳9日を更新し、米国の学生で渡辺の友人でもあったブリットン・キーシャン︵en:Britton Keeshan︶が2004年5月24日にたてた当時の世界記録22歳174日に次ぐ22歳292日で達成した[2][5]。達成後の記者会見では﹁登山はこれで幕を下ろし、次は大気圏外から青い地球を見たい﹂と今後の抱負を語った[6]。
2012年︵平成24年︶12月26日、ロシア連邦ムルマンスク州南部のカンダラクシャ市郊外の国道M-18(通称コラ道路)路上で自転車に乗っていたところを車に追突されて死亡した[7]。
経歴[編集]
脚注[編集]
出典[編集]
(一)^ abcd“7最高峰登頂のセブン・サミッツに挑む 九産大の渡辺さん︻西部︼”. 朝日新聞. (2003年12月12日)
(二)^ abc“渡辺大剛さん︵森出身︶か ロシアで邦人男性事故死”. アットエス︵静岡新聞︶ (2012年12月27日). 2013年2月12日閲覧。[リンク切れ]
(三)^ “プロフィール”. Haruhisa Watanabe Web. 2006年6月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年6月30日閲覧。
(四)^ ab“渡辺大剛への講演依頼-冒険家”. システムブレーン. 2012年5月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月8日閲覧。
(五)^ ab“日本最年少、7大陸最高峰に登頂 九産大・渡辺さん ︻西部︼”. 朝日新聞. (2004年6月18日)
(六)^ “﹁登山に幕、次は大気圏外﹂ 7大陸最高峰登頂の渡辺さん︻西部︼”. 朝日新聞. (2004年9月11日)
(七)^ “事故死は冒険家の渡辺さん=﹁極夜﹂サイクリング中-ロシア”. 時事通信 (2012年12月27日). 2013年2月12日閲覧。[リンク切れ]