王允卿
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王允卿 | |
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『大満洲帝国名鑑』(1934年) | |
プロフィール | |
出生: | 1890年(清光緒16年) |
死去: |
1954年 中国吉林省長春市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府海城県 |
職業: | 政治家・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 王允卿 |
簡体字: | 王允卿 |
拼音: | Wáng Yŭnqīng |
ラテン字: | Wang Yün-ch'ing |
和名表記: | おう いんきょう |
発音転記: | ワン ユンチン |
王 允卿︵おう いんきょう、中国語: 王允卿; 拼音: Wáng Yŭnqīng; ウェード式: Wang Yün-ch'ing︶は、中華民国・満州国の政治家・外交官。字は庚陽。
事績[編集]
官費で日本へ留学し、明治大学法学部本科を卒業した[1]。帰国後は奉天交渉署練習員、安東県甲種商業学校教務長、国立山西大学教授、山西軍官法政講習所教官、天津地方検察庁検察官、黒竜江省鶴崗煤鉱公司科長兼董事を歴任している[2]。 満州事変︵九・一八事件︶勃発後、王允卿は鶴崗煤鉱を関東軍に引き渡し、その際に土肥原賢二から事務能力を認められたという[3]。1932年︵大同元年︶3月に満州国が建国されると、吉林省高等検察庁庁長に起用され[4]、1934年︵康徳元年︶3月には司法部行刑司司長に抜擢された[5]。1937年︵康徳4年︶7月、奉天省民政庁長に移り︵翌年1月、民生庁長に改組︶、翌1938年︵康徳5年︶5月には総務庁官房首席検察官となっている[3]。 1940年︵康徳7年︶5月、王允卿は熱河省省長に転じ[6]、翌1941年︵康徳8年︶1月には総務庁次長に起用された[7]。同年9月には、満州国協和会連合協議会副議長に選出されている[3]。1942年︵康徳9年︶、満州国建国10周年祝典事務局局長を務めた。同年9月29日、駐日大使を命ぜられ、日本に駐在している[8][3]。なお、王允卿は満州国最後の駐日大使である。 正確な時期は不明だが、王允卿は満州国滅亡前後に帰国している。その後、国民政府により王は逮捕され、南京老虎橋監獄に収監された。1949年︵民国38年︶に釈放され、長春市に移り住んでいる。しかし中華人民共和国建国後の1951年4月26日、長春市公安局により反革命罪を問われて逮捕された。1954年、長春市の監獄内で病没。享年65。脚注[編集]
(一)^ ﹃大満洲帝国名鑑﹄﹁吉林省﹂56頁で﹁法律本科卒業﹂との記載があることによる。中国鞍山名人網は﹁明治大学政治経済科﹂︵原文は﹁政治経済系﹂︶としている。なおいずれの資料でも在籍年の記載がない。
(二)^ ﹃大満洲帝国名鑑﹄﹁吉林省﹂56頁による。中国鞍山名人網は、この他に井陘煤鉱会計科長を務め、鶴崗煤鉱では経理代理を務めたとしている。
(三)^ abcd中国鞍山名人網。
(四)^ 劉ほか編︵1995︶、1190頁。
(五)^ 劉ほか編︵1995︶、1185頁。
(六)^ 劉ほか編︵1995︶、1195頁。
(七)^ 劉ほか編︵1995︶、1159頁。
(八)^ 郭主編︵1990︶、1832頁。
参考文献[編集]
●﹃大満洲帝国名鑑﹄挙国社、1934年。 ●﹁王允卿伝略﹂2011年8月20日中国鞍山名人網 ●劉寿林ほか 編﹃民国職官年表﹄中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。 ●郭卿友主編﹃中華民国時期軍政職官誌﹄甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。 満州国
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