田子一民
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田子 一民︵たご いちみん、1881年︵明治14年︶11月14日 - 1963年︵昭和38年︶8月15日[1]︶は、日本の官僚、政治家、衆議院議長︵第34代︶、衆議院副議長︵第27代︶、官選三重県知事、農林大臣︵第4次吉田内閣︶、衆議院議員︵通算9期︶などを務めた。岩手県盛岡市出身。東京帝国大学法科大学卒業。
来歴[編集]
岩手県士族の田子勘治の次男として生まれる[2]。現在の盛岡市立城南小学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し[2]、内務省に入省。山口県警部、山口県都濃郡長、山口県警察部長、内務省社会局第一課長兼第二課長、社会局長、官選三重県知事などを歴任し[2]、その後政界に転じる。小選挙区制となって2度目の選挙となった1924年︵大正13年︶の第15回総選挙に与党政友本党公認で郷里の旧岩手1区から出馬したが、この選挙区はテロの凶刃に倒れた原敬前総理の選挙地盤だったことから、原の死後政友会総裁を継いだ高橋是清前総理が貴族院議員を辞職してこの選挙区から出馬。選挙戦は与党の全面的支援を受ける田子と、原の弔い合戦を標榜する高橋の、壮絶な一騎討ちとなった。政界新人の田子は大政党総裁の高橋を相手に善戦し、47票の僅差で惜しくも落選に甘んじた。4年後の第16回総選挙では政友本党の分裂と高橋の引退を受けて、旧岩手1区から政友会公認で再出馬し初当選を飾った。その後再選を続け、1936年︵昭和11年︶には広田内閣で鉄道政務次官に就任。1939年︵昭和14年︶には衆議院副議長に選出された。同年起きた政友会の第二次分裂に際しては中島知久平を総裁に担ぐ革新派に所属した。大東亜戦争開戦直後の1941年︵昭和16年︶12月24日には衆議院議長に選任された。 戦後は日本進歩党の結成に参加するが、翼賛選挙で推薦候補として当選したことが災いして公職追放に遭う。追放解除後は政界に復帰し、吉田自由党公認で1952年︵昭和27年︶の第25回総選挙に新岩手1区から出馬して返り咲きを飾った。その後1953年︵昭和28年︶に発足した第4次吉田内閣では農林大臣を拝命している。その後も再選を重ねたが、1958年︵昭和33年︶の第28回総選挙では265票差で次点に甘んじ、この後政界を引退した。1963年︵昭和38年︶8月15日、満81歳で死去した。墓所は盛岡市永泉寺。栄典[編集]
●1921年︵大正10年︶7月1日 - 第一回国勢調査記念章[3]親族[編集]
妻の田子静江︵福岡珠子︶は1883年11月[2]秋田県横手市雄物川町出身で福岡易之助の姉であり、日本女子大学を卒業している[2]。石川理紀之助から農村指導の教えを受け、秋田魁新報(大正4年9月15日~19日)に﹃篤農石川翁と九升田(一)~(四) 内務書記官 田子一民﹄の寄稿がある。子供は男4人(4人とも東京帝国大学卒)、娘2人(お茶の水女子大学卒)。著作等[編集]
- 『社会事業』(1922年)
脚注[編集]
(一)^ ﹃朝日年鑑 1964年版﹄796頁︵国立国会図書館デジタルコレクション︶。2023年11月3日閲覧。
(二)^ abcde人事興信所 1941, タ8頁.
(三)^ ﹃官報﹄第2858号・付録﹁辞令﹂1922年2月14日。
参考文献[編集]
- 人事興信所 編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年 。
- 朝日新聞社編『朝日年鑑 1964年版』、朝日新聞社、1964年。
外部リンク[編集]
- 日本ニュース第81号|NHK戦争証言アーカイブス(「陸海軍に対する感謝並びに戦死者に対する敬弔決議案」を朗読する田子の姿が収録されている。)
公職 | ||
---|---|---|
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公職 | ||
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