真野観我
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まの かんが 真野 観我 | |
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![]() 『慶應義塾出身名流列伝』所収 | |
生誕 | 1853年9月27日 |
死没 | 1920年3月26日(66歳没) |
真野 観我︵まの かんが、嘉永6年8月25日︵1853年9月27日︶ - 1920年︵大正9年︶3月26日︶は、大日本帝国海軍旅順海軍経理部長、海軍主計総監、主計少将。位階おより勲等、軍功は従四位・勲三等・功四級金鵄勲章。本名は秀雄︵ひでお︶。
経歴[編集]
安政2年︵1855年︶8月22日に紀伊国黒江町に生まれるとする文献もあるが、武蔵国豊島郡育ち。初め、親戚の筧平三郎に寄宿し、林靏梁、大沼枕山の下で漢学を修める。さらにグリン・カロザンの築地学校に学び、1878年︵明治11年︶1月に慶應義塾に転ずる。1880年︵明治13年︶慶應義塾正科を卒業。同窓に、矢田績、戸張志智之助など。そのまま慶應義塾の寮長兼教員となるが、1885年︵明治18年︶8月に海軍主計官臨時採用試験に合格。 海軍主計となり、1887年︵明治20年︶海軍小主計として海軍主計学校教員兼任監事、1891年︵明治24年︶常備艦隊秘書となり、井上良馨大将・有地品之允中将・相浦紀道中将、伊東祐亨元帥などの配下についてその名を上げる。1893年︵明治26年︶にイギリス出張、造船造兵監督会計官となる。渡英5年後の帰朝の際には横須賀経理第二課長に就任。 日露戦争が始まると、海軍主計大監に就任し、艦政本部会計課長。功績により勲五等双光旭日章を受章。終戦後は呉海軍工廠会計課長、更に旅順海軍経理部長海軍主計大監となる。1910年︵明治43年︶に海軍主計総監に昇任し、後備役。1919年︵大正8年︶に海軍主計少将。 著書が多く、慶應義塾でも長く教鞭をとった。栄典[編集]
著書[編集]
脚注[編集]
- ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。