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義経=ジンギスカン説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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義経、清国の祖とされる[編集]


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判官びいき説[編集]


寿 

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[ 7][ 8]

両者の前半生は不明[編集]

源義経の前半生は不明[編集]


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チンギス・ハン 和暦/西暦 源義経
(以下の発生年は推定) 平治元年
1159年
義経の生年。源義朝と九条院雑仕の常盤との間に生まれる。幼名は牛若丸(遮那王丸・源九郎とも)。但し、幼名は伝説。
モンゴル中央高原でテムジン(後のチンギス・ハン)誕生。右手に“血”の塊を握っていたと伝承。父はイェスゲイ 1162年

1167年

詳細不明

嘉応元年
1169年
(伝)義経が鞍馬寺に預けられる。遮那王に名前を変える。但し、鞍馬寺に預けられた事のみ吾妻鏡に記載(年月は不詳)
承安4年
1174年
(伝)義経が奥州へ向う。但し、秀衡を頼って元服後奥州へ下向した事は吾妻鏡に記載(年月は不詳)
テムジン、コンギラト部族のデイ・セチェンの娘ボルテと結婚するが、メルキト部族にボルテを奪われる。以後約9~10年間行方不明。 1178年治承2年頃)
治承4年
1180年
義経、黄瀬川の宿で頼朝と対面(22)。

これ以降が史料上(吾妻鏡)明確な義経の足跡。これ以前は不明。

治承5年
1181年
大工の馬事件:鶴岡八幡宮若宮の棟上式において、工匠たちに与える馬を引かせられた。たとえ兄弟であっても、義経は頼朝の御家人の一人にすぎないということを認識させた事件(23)。以後3年間行方不明。
寿永3年
1184年
宇治川の戦い1月20日範頼とともに宇治川の合戦に勝利し、義仲を近江粟津に敗死させる。壇ノ浦の合戦。(26)
寿永5年
1185年
義経京に凱旋するも、頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを許されず都落ちし、大物浦より西国へ向かうが、暴風雨により失敗(11月6日)。その後消息不明。(27)
テムジン、メルキト部族をプウラ・ケエルで破りボルテを奪還。 1187年文治3年頃)
テムジン、一回目の「ハン」を宣言(年月不詳)後、蒙古源流では、雞の年(己酉なら1189年、一回りあとの辛酉なら1201年)にテムジンが新たにGür Qanとなった盟友ジャムカと一大決戦を行なって破れる[21]十三翼の戦い 文治5年

1189年

奥州衣川で義経自害。(31)
ウルジャ河の戦い金史に記載:テムジンが歴史史料に初出) 1196年

偽本(捏造書)の存在[編集]

金史別本について[編集]

金史別本(金史列将伝)とは[編集]


21717[ 12]171351344
「金史列将伝ニ曰 金史別本 範車国ノ大将軍源光録義鎮ハ、日東ノ陸華仙権冠者義行(義経を指す:引用者注)ノ子也、始メ新靺鞨部ニ入リ、千戸邦ノ判事ト為ル、身ノ長六尺七寸、性温和ニシテ勇猛、才思諸部ニ甲タリ、外夷多ク随フ、拝シテ学館ニ入リ礼義ヲ弁ズ、後チ咸京録事ニ遷ル、章宗詔シテ光録大夫ニ転ズ、累リニ大将軍ニ任ズ、久ク範車城ヲ守リ北方ヲ押ス、往昔権冠者(義経を指す)東小洋ノ藩君、章宗顧厚賞、総軍曹事ノ官ニ定メ、北鉱ニ入ラ令メ、不日蘇敵ヲ破ル、印府ヲ得テ、翻リ来リ幕下ニ属ス、範車ヲ築キ護ル焉、頃北天ヲ侵シ、龍海ヲ渡リ、一ノ嶋ヲ得タリ、山河麗奇ニシテ悉ク金玉也、民霊草ヲ煎ズルコトヲ知テ、少ク五穀ヲ食フ、生肉ヲ屠ルヲ甚ダ嫌フ、故ニ邪煩無ク、老仙伊香保ノ行辰本命ノ法ヲ行フ、儀相異怪無シ、徳故人ニ勝レル、義行帰趣シテ尊敬シ長寿ヲ得タリ、後チ中華ニ遊テ隠顕更ニ定ラズ」(原文は漢文)


「…蝦夷ハ金ノ地続キニシテ一名ヲ毛人女直トイフ金ノ本名ヲ女真トモ女直トモイヘリ俗説ニ蝦夷人義経ヲ信敬スル神ノ如シイカサマニモ蝦夷ヲ従ヘテ後ニ金ニ渡リ章宗ニ仕ヘ玉フナルヘシ」

[ 13]

217

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「地名官号はさておき、文字の拙き、一句として見るに足るべくも候所もなく覚候、世にはかかる妄人も候て、世をたぶらかし人を欺き候事、いかなる事に候歟」

[ 14]51740
「鎌倉実記の編末に、金史別本と云書を引て書たるは、跡形もなき空言也、予金史別本と云は偽書也と知て中根丈右衛門と論じて偽作せし人を屈服せしめたり、中根氏も是に我を折し也」

[22]

[ 15][12]

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[23]

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[ 16][26]

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[24][ 17]317831130
「朕姓源義経之裔其先出清和故号国清トアリ清ト号スルハ清和帝ノ清ナリト或儒考ヲ加ヘ書ルヲ前年見テ不審ナリシ…」

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「明和三年五月新渡図書集成六百套。九千九百九十六巻。清蒋天錫奉勅挟定。中有輯勘録三十巻。第三十序云。乾隆皇帝述。我姓源義経裔。其先清和姓源故国号清姓源。出伊藤才蔵之記。」

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「世に伝ふ、義経衣川館に死せずして、遁れて蝦夷に至ると。今東鑑を考ふるに、閏四月己未(新暦615日:引用者注)、藤原泰衡義経を襲ひて之を殺す。五月辛巳(新暦77日)、報至り、将に首を鎌倉へ致さんとせしが、時に源頼朝鶴岡の浮圖(仏塔)を慶したり。故に(泰衡へ)使を遣はして之(首の鎌倉搬送)を止む。六月辛丑(新暦727日)、泰衡が使者、首を斎して腰越に至り、漆函もて之(首)を盛り、浸すに美酒を以てす。頼朝和田義盛梶原景時をして之を検せしむと。己未より辛丑に至るまで、相距ること四十三日。天、時に暑熱なり、函して酒に浸したりと雖も、焉ぞ壊爛腐敗せざることを得ん。孰れか能く其の真偽を弁ぜんや。然らば則ち義経は偽り死して遁れ去りしか。今に至るまで夷人義経を崇奉し、祀りて之を神となせり。蓋し或はその故あらん」(原文は漢文)
「松前城下より下ったサルという地に、陸行で九日の距離で、源義経公が上陸した場所と伝えられています。
伝承によれば、義経公はアイヌでサルを統治していた大将の婿になり、サルに程近いハヘという屋敷を構えたそうです。その後、大将の宝物を盗んで本土に引き返したそうです。アイヌの言葉で義経公はウキクルミ、弁慶をシャマニイクルと呼んでいます。蝦夷で昔から伝承されていますが、真偽の程は判りません」元禄元年の快風丸調査報告

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621712[ 19][29]51720[30]
「義経手ヲ束ネテ死ニ就ベキ人ニアラズ、不審ノ事ナリ。今モ蝦夷ノ地ニ義経家跡アリ。マタ夷人飲食ニ必マツルモノ、イハユル『オキクルミ』ト云フハ即義経ノ事ニテ、義経後ニハ奥ヘ行シナド云伝ヘシトモ云フ也」(読史余論)
「俗尤敬神、而不設祠壇、其飲食所祭者源廷尉義経也、東部有廷尉居止之墟、土人最好勇、夷中皆畏之(夷俗凡飲食乃祝之曰オキクルミ、問之則曰判官、判官蓋其所謂オキクルミ、夷中所称廷尉之言也、廷尉居止之地名曰ハイ、夷中所称ハイクル、即其地方人也、西部地名亦有弁慶崎者、或伝廷尉去此而踰北海云、寛永間、越前国神保人、漂至韃靼地、是歳癸未、清主乃率其人、而入于燕京、居歳余、勅遣朝鮮送到而還、其人曰、奴児干部門戸之神、似此間画廷尉像者亦可以為異聞)」(蝦夷志:句点は引用者)

[31][32]

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「満州人に源義経蝦夷より満州へ入りし事を度々尋ねしに聢(しか)といたせし証拠はなく候ヘども当時漢土の天子は日本人の末なりといふ事承り伝へ候……おもふに蝦夷へ行し我国人の言葉聞伝へたるにてあらん歟」

[33]
「唐太(樺太)を離れてマンコの川(黒竜江)を五十里ばかり上ったところのアヲレヒと云う処で、青石に日本画風で描かれの様なもので彫った二の馬の絵を発見し、異国の筆法ではないと確信した。
間宮も描いてみたいと所望したが拙くて辞めた。右の馬の絵はもしや義経公かもしくはその従者か。
蝦夷地に弁慶崎というところがあるが、正しくは世人の誤りで蝦夷言葉(アイヌ語)にヘンケルという言葉があり、これはヘンケルサキであって弁慶崎ではない」

[ 21][27]

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18785127 Unbeaten tracks in Japan , 18802調西The Shrine of Yoshitsune
「崖の突端、ジグザグ道の頂上には、日本本島の木立や高台でよく見かける木造の寺院あるいは神社が建っている。明らかに日本式建築だが、それに関してアイヌの伝承は黙して語らない。私が立った場所にはそれまでヨーロッパ人は誰ひとり立ったことはなく、身の引き締まる見聞であった。副首長が引き戸を引くと、全員が敬意を表して頭を下げた。それは白木からなる素朴な神社で、奥にある広い棚の上には、象嵌された真鍮の甲冑を身につけた歴史上の英雄義経像を収めた厨子、金属製の御幣が数枚、変色した真鍮のろうそく立て二脚、細々と描かれた中国の彩色画があった。(後略)」(短縮版 LETTER XXXVI-Continued より)


「義経は日本の歴史上最も人気のある英雄であり、少年たちの特別なお気に入りである。彼は、1192年に勝者としてミカドより征夷大将軍(夷狄を征伐する将軍)に任ぜられた頼朝の弟で、頼朝とは、ヨーロッパ的概念で日本の「世俗的皇帝」と曲解された大将軍の初代を務めた人物である。勝利者として真の名誉を称えられた義経は、兄の嫉妬と憎しみの対象となり、諸国を追われ、通説では、彼は妻子を殺した後、切腹。その首は酒漬けにされ鎌倉の兄のもとに送られた。しかし、知識人たちは彼の死に様、時期、あるいは場所について納得していない。義経は蝦夷地に逃れ、長くアイヌ民とともに暮らし、そこで12世紀末に死を迎えたと信じている者も多い。アイヌは誰よりも堅くそう信じており、彼らは義経が祖先に文字と数字をもって文明の諸技芸を教え、さらに正しい法を授けたと主張し、彼らの多くが義経を法の番人を意味する名称のもとに崇拝している。私は平取・有珠礼文華(レブンゲ)の長老らから、後代のある日本人の侵略者が技芸を伝えた書物を持ち去ったため、以来技芸そのものが失われ、アイヌは現在の状態に陥ったと聞かされた。なぜアイヌはナイフや槍だけでなく鉄や粘土で器を作らないのかと尋ねると、『日本人が書物を奪ったのだ』という決まり文句が返ってくる。」(短縮版 脚注 [21] より)

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[ 23][36][30]1852NIPPON1510
「義経の蝦夷への脱出、さらに引き続いて対岸のアジア大陸への脱出の年は、蒙古人の歴史では蒙古遊牧民族の帝国創建という重要な時期にあたっている。
『東蒙古史』には豪族の息子鉄木真28歳の年ケルレン川の草原においてアルラト氏によって可汗として承認された。
…その後間もなくチンギス・ハンははじめオノン川のほとりに立てられた九つの房飾りのついた白旗を掲げた。
…そしてベーデ族四十万の支配者となった。」[37]



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[43]

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フートは日本のと変わらず、太祖以下二世三世がヨーロッパに侵攻したとき、日本の尺度を彼らに伝えたからである。蒙古人がなぜ日本の尺度を用いたかと云えば、その太祖が日本人だったからに外ならず、彼の名は〇〇〇というが、圓牆を避けて蝦夷地に逃げたが、土人を征服したため益々兄の怒りを買い、討伐の風評に恐れをなして満州に渡った。ついで蒙古に入って一地を攻略し次第に近隣諸国を併合してついに國を元とした。自分が去年支那に渡航したとき、元の太祖の建立に関わる健靖寧寺記と題する碑文を示されたことがあるが、大意が上に述べた事であり、碑の側面には鳥居が刻んであった。因に明治にこの碑文が問題にされたとき、健セリュウ(青竜)寺記と聞き間違われ、義経の墓ともされてしまった。

西[44]

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「義経自殺の噂は、頼朝を安心させ、また反対派の武装を解除するため広められ、国の年代記に記入されたとし、更に彼は義経は蝦夷から韃靼に渡り、元朝の祖となったと確言している」


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Heinrich Freiherrn von Siebold調1881Ethnologische Studien über die Aino auf der Insel Yesso 2

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1876The Mikado's Empire  SeppuGenghis Khan[45][ 25]
義経の死に関して確かな真実は、まったく定まっていない。一説には、彼は死地を脱して蝦夷へ逃亡し、長くアイヌとともに暮らし、そこで自然に死を迎えたか、あるいは hara-kiri 切腹したとされる。アイヌは彼の行為に大きな畏敬の念をもって今日までその精神を崇拝し、日高にある墓所に神社を建立した。あるいは、義経はアジア大陸に逃亡し、偉大な征服者Genghis Khanになったと主張するものもいる。* この最後の意見について、かつてある日本人学生は「日本人の途方もない虚栄心なくして、このような report 伝承は生み出せない」と述べた。
* 中国で刊行された伝説及び雑史を集めた『Seppu』という書物では、Genghis Khanは日本から来た義経であったと述べられている。Minamoto Yoshitsune は中国語では Gen Gikeママである。彼はその有名な死後、Temujin(or Tenjin)とも呼ばれた。周知の通り、モンゴルの征服者が最初に登場したときの名はTemujinだった。日本のアイヌは義経を判官大明神(偉大なる立法者)という称号で神格化した。義経は1159年に生まれた。有名な死を迎えた時は30歳だった[満年齢:引用者注]。Genghis Khanは、一般に認められているデータによると、1160年に生まれ、1227年に没した。Gen GikeとGenghis Khanが同一人物であるなら、英雄は38年間の功績を残した。Genghis Khanは血まみれの手で生まれたとされている。シャーマン(霊感を受けた予見者)の言葉に従い、彼はGenghis(greatest 史上最高)という名を用い、自らの民をMongols(bold 果敢)と呼んだ。地上全体の征服が彼に約束された。彼とその息子は、中国と朝鮮を征服し、バグダッドのカリフ制を打倒し、モンゴル帝国をオーデル川とドナウ川まで広げた。

Genghis KhanGen GikeGenghisTenjinTemjin[46]

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調寿[1]9187611貿170[46]

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111878141881寿The identity of the great conqueror Genghis Khan with the Japanese hero Yoshitsuné 1879[47]

Japan Weekly Mail181885183207

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小谷部説 それに対する反論
チンギス・ハンに関するもの
成吉思汗はニロン族、すなわち日の国よりきた人として蒙古に伝えられている。この「ニロン」とは「ニホン(日本)」のことはないか。 ニロンはニホンの訛りではなく、蒙古語の「納㘓(口偏に闌)ナラン」、納藍(日、太陽)から訛ったものである。中島
キャトは京都出身者の事を表しているのではないか? キャトはアボルガジイ氏曰く成吉思汗の姓は「キャン」で、蒙古語の岩石に直下する飛泉の意味で、「キャト」はその複数形である。中島
成吉思汗は別名を「クロー」と称した。これは「九郎判官」ではないか。また、軍職の名は「タイショー」として現代に伝わる。蒙古の古城跡では「城主はクロー」と称していたという言い伝えがある。 小谷部は九郎(義経官職の九郎判官)に結び付けたがっているが、蒙古語「古兒罕グルハン」であり、「部落の長」である。発音は「グラン」に近い。中島
義経は「九つのふさのついた白い旗」を使ったと云われているように九をシンボル数として多用した。 源九郎義経判官のシンボルとして「九」の数を挙げているがアイヌは「六」がシンボル数である。中島
成吉思汗の父「エスガイ」は「蝦夷海」から来ているのではないか 成吉思汗の父の名は「エゾカイ」ではなく「也速該」(エガイ)である。蝦夷は他民族はエゾと呼ばない。アイヌ語や奇鄰語では、Ainuといい、山丹語ではKuiである。蝦夷(カイ)に近い。ニクブン語(ギリヤーク語)ではKugiである。
武将金烏諸(キンウチョ)の名が成吉思汗の訛り 小谷部は「西利亜及沿海州の蘇城」、「双城子と義将軍の石碑」の二項を設け、日本の武将金烏諸(キンウチョ)の名が成吉思汗の訛りだとするが、山丹人は黒龍江岸ばかりでなく、樺太南部にも住んでいるから、アイヌから云えば樺太・山丹は選ぶところではない。従って蘇城などに行くわけがない。
軍職の名は「タイショー」として現代に伝わる。 タイシャー(小谷部説は大将の意)は蒙古語では大石(タイシー)。親友の意味の蒙古語アンダ(安答)はオロッコ語のAndaなどと同系である。
アイヌに関するもの
オキクルミは義経を表し、サマユンクルは弁慶のことである。 オキクルミは造化神の意味でアイヌ語の「クルミ」は日本男子で、「クルマツ」は日本婦人のことだから、混乱して蝦夷に渡ってきた和人の英雄と解する人が多くなった。永田方正に従えばオキクルミはオオキリマイ、オキキリマイと云っていたのが訛ったのである。アイヌ説話のサマウンクルはオキクルミに先んじて死んでいるし、オキクルミは樺太アイヌから殺されている。サマウンクルが弁慶であるとすれば、義経に先んじて死んだことになるから小谷部氏の大陸渡航説はありえない。中島

小谷部の反論[編集]


西[50]

[15][50]

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「成吉 思水干」となり、遠くモンゴルで良きこと「吉」を成し遂げ、
「吉成りて、水干を思う」

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「[閏四月大]卅日 己未 今日陸奥の国に於て、泰衡源予州[義経を指す]を襲ふ。是れ且勅定に任せ、且は二品の仰せに依て也。予州、民部少輔基成朝臣が衣河の館に在り。泰衡が従兵数百騎、其の所に馳せ至て、合戰す。予州の家人等相防ぐと雖ども、悉く以て敗績す。予州持仏堂に入り、先づ妻(廿二)子(女子四歳)を害し、次に自殺すと云云。/前伊予守従五位下源朝臣義経(義行又た義顕と改め年卅一)。右馬頭義朝々臣の六男、母は九條院の雑仕常盤。[後略]」(原文は漢文、以下同)

522
「[五月小]廿二日 辛巳 申の刻に、奥州の飛脚参著す。申して云はく、去ぬる月晦日に、民部少輔が館に於て予州を誅す、其の首追て進ずる所也と云云。則ち事の由を奏達せ被れん為めに、飛脚を京都に進ぜ被る。[後略]」

5196967

[53][ 31]

613
「[六月大]十三日 辛丑 泰衡が使者、新田冠者高平、予州の首を腰越の浦に持参し、事の由を言上す。仍て実検を加へん為めに、和田太郎義盛、梶原平三景時等を彼の所に遣さる。各々、甲直垂を著し、甲冑の郎従二十騎を相ひ具す。件の首を黒漆の櫃に納れ、美酒に浸し、高平が僕従二人、之を荷担す。昔の蘇公は、自ら其の糧を担ふ、今の高平は、人をして彼の首を荷は令む。観る者皆双涙を拭ひ、両の袂を湿ほすと云云。」

79831223
「[十二月大]廿三日 戊申 奥州の飛脚、去ぬる夜參じ申して云く、予州[義経を指す]并びに木曽左典厩[義仲]の子息[義高]、及び秀衡入道が男等の者有りて、各々同心力合せ令め、鎌倉に発向せんと擬する之由、謳歌の説有りと云云。仍て勢を北陸道に分け遣はす可きの歟之趣、今日其の沙汰有り。深雪之期と為りと雖ども、皆用意を廻らす可く之旨、御書を小諸太郎光兼佐々木三郎盛綱已下、越後信濃等の国の御家人に遣はさ被ると云云。俊兼、之を奉行す。」

1224
「廿四日 己酉 工藤小次郎行光由利中八維平宮六兼仗国平等。奥州に発向す。件の国も又た物忩之由し、之を告げ申すに依て、防戰の用意を致す可き之故也。[後略]」

 

6119063
「[正月小]六日 辛酉 奥州、故泰衡が郎従、大河次郎兼任、以下。去年の窮冬以来、反逆を企て、或は伊予守義経と号し、出羽国海辺庄に出で、或は左馬頭義仲の嫡男朝日冠者と称し、同国山北郡を起ち、各々逆党を結び遂に兼任、嫡子鶴太郎、次男於畿内次郎、并びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉の方に向ひ、首途せ令め、其の路は、河北、秋田の城等を歴、大関山を越え、多賀国府に出んと擬れて、秋田、大方より、志加の渡りを打ち融る之間、氷俄に消えて、五千余人、忽ち以て溺れ死訖ぬ。天の譴を蒙る歟。[後略]」

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義経北行伝承地(岩手県の場合)[編集]

史跡 所在地 詳細
亀井文書(借用書) 岩手県油田村 食糧調達の亀井六郎が、油田村の惣平氏より糧米粟七斗(126kg)借用したとする文書。文治四年四月(1188年)の日付。義経、弁慶、亀井の連名で署名。
高舘 岩手県平泉 泰衡の報告ではここが最後の地とされている。
観福寺 岩手県一関市大東町 一行は観福寺に宿泊し、蝦夷入りの行程を検討したと伝えられる。亀井六郎重清の笈が寺宝として残されている。
弁慶屋敷 岩手県奥州市江刺 一行は夜に菅原家にて白粟五升(9kg)を借り、粥を炊かせて食した後立ち去った。弁慶が足を洗った池が存在する。
多門寺 岩手県奥州市江刺 多門寺の末寺である重染寺には鈴木三郎重家の子重染が正治年中に創建されたと伝わる。
玉崎神社 岩手県奥州市江刺 一行は十数人、馬数頭で来て五日間逗留し玉崎の牧馬山に馬を放った。
源休館 岩手県奥州市江刺 源休館では数日間休息をとったと伝えられる。『平泉雑記』に記載がある。
判官山 岩手県気仙郡住田町 判官山(別名黒山)九郎の転化と思われる。野宿しながら険しい山を越えたと伝承。慶長10年に書かれた宮古判官稲荷縁起に「黒舘」との記載がある。
法冠神社 岩手県釜石市 一行が野宿したと伝えられている。「ほうかん」と呼んだと伝わっている。
判官家 岩手県下閉伊郡山田町大沢 義経一行が宿泊したとされる家。そのため、明治以前は「判官」の姓を名乗っている。今も判官の名が入った墓石が残る。
佐藤家 岩手県下伊郡山田町関口 義経の軍師佐藤庄司基治」の子信正が、義経一行を案内して、当地まで来たことを示す文書がある。文治4年申ノ九月(1188年)の日付。氏神棟札慶長8年(1603年)
判官神社 岩手県宮古市津軽石 義経を祀る(ほこら)がある。義経一行がこの地に滞在したことから、「判官館」とよばれるようになった。
横山八幡宮 岩手県宮古市宮町 義経一行が松前渡海の安全祈願をしたという神社。弁慶直筆の大般若経が収められていたと伝わる。一行は義経、弁慶、依田源八兵衛弘綱、亀井六郎重清、鈴木三郎重家など。鈴木三郎重家は老齢のためこの地に留まると神主になったと伝えられる。
御堂華、出雲家 岩手県宮古市 義経一行が15、6人でやってきて、粟を六升(11kg)借りて証文を置いていった。
吉内(よしうち)屋敷 岩手県下閉郡田老町乙部 かつては「きちない」と呼ばれた。金売吉次の弟吉内の屋敷。義経が着用したという兜は、宮古市本町の志賀家で所蔵。

モンゴル史研究におけるチンギス・カン像[編集]



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脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 

(二)^ 12061189

(三)^ 237

(四)^ 寿寿10

(五)^ 101670791984

(六)^ ab20164358

(七)^ 101633121635

(八)^ 19661958

(九)^ ab10

(十)^   92-94

(11)^ (, p. 108)

(12)^ 1670-1724-9121291756

(13)^ 殿20

(14)^ 16861740 

(15)^ 1703-8216調212180

(16)^ 19632013BS20141218   201564

(17)^ 1742-942317836112653

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(20)^ PDF

(21)^ 

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出典[編集]



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