花魁 (高橋由一)
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作者 | 高橋由一 |
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製作年 | 1872年(明治5年) |
種類 | キャンバス、油彩 |
寸法 | 77.0 cm × 54.8 cm (30.3 in × 21.6 in) |
所蔵 | 東京芸術大学大学美術館、東京都台東区 |
登録 | 重要文化財(1972年指定[1]) |
ウェブサイト | 東京藝術大学大学美術館収蔵品データベース |
﹃花魁﹄︵おいらん︶は、明治初期の洋画家、高橋由一による油彩画である[2]。新吉原の大店である稲本楼の花魁小稲をモデルとした作品で、1872年︵明治5年︶4月に描かれた[3]。国の重要文化財に指定されるなど、﹃鮭﹄と並んで由一を代表する作品となっている[3]。
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浮世絵師渓斎英泉が描いた小稲︵初代︶
本作品のモデルとなった四代目小稲︵本名亀井お定[注釈 1]︶は、7歳の時に質に売られ、新吉原へ流れ着き娼妓となった身の上が条野採菊の小説﹃廓雀小稲の出来秋﹄︵1886年︶に語られている[8]。お定を引き取った角町の稲本屋庄三郎は、彼女の将来性を見込んで三味線、香、花、茶などを学ばせた[8]。修練に励んだお定は15歳の時に﹁左近﹂の名を貰い、三代目小稲のもとで娼妓として仲の町でデビューすることとなった[8]。数年後、慶応2年︵1866年︶の春になると小稲の名を継ぎ、花魁の最高位﹁呼出し昼三﹂としてその名を轟かせた[8]。モデルを務めた1872年︵明治5年︶10月には娼妓解放令が発布され、これをきっかけに小稲は身を引いて神田関口町の有馬屋清右衛門の元へと身請けし、神田五軒町に﹁梅月﹂という食堂の運営を始めたという[9]。
油絵制作の依頼を受けた由一はモデルとなる花魁を探していた[7]。油絵でなく錦絵に描かれることを望んだことから多くの花魁に断られる中、これを承諾した稲本楼の小稲は、下髪に結い、大量の簪を刺して、豪華絢爛な打掛を纏って由一の前に座り、モデルを務めた[10]。
﹁花魁﹂というひとりの女性をひとつの﹁静物﹂と捉えた由一は目に映るあるがままをそのまま描き上げた[11]。完成した油絵は当時一般的だった浮世絵の美人画とはかけ離れたものとなり、表情は硬く、疲れたように虚空を睨みつけるリアルな女性の姿がそこにはあった[11]。由一の絵を見た小稲が﹁わちきはこんな顔ではありんせん﹂と、泣いて怒ったという逸話が伝えられている[5]。
背景[編集]
安政2年︵1855年︶10月5日、夜10時ごろにマグニチュード6.9の安政の大地震が発生し、江戸の町は壊滅的な被害を受けた[4]。新吉原も例外ではなく、当時の遊女のおよそ一割にあたる六百余名が命を落とした他、地震に伴う火災によって建物の多くが焼失した[5]。その後も多くの火災に見舞われた新吉原はその都度破壊と再生を繰り返しながら脈々と営業を続けていたが、明治維新によって誕生した新政府は、西洋諸外国からの遊女の人身売買についての批判などを抑えるために遊郭に対する規制を強める動きが活発化しつつあった時代であった[5]。こうした文化が廃れていくのを残念に思った某人によって、花魁という象徴的な姿を記録に留めて欲しいと由一に依頼したことが、本作品の制作動機とされている[3]。由一に仕事を斡旋した某人とは、実業家の岸田吟香や戯作者の条野採菊といった名が挙げられている[6]。 1872年︵明治5年︶4月28日の﹃東京日日新聞﹄一面には、次のように報じられている[7]。 或人、花街の光景在昔に異りて娼妓の形容随て変じ兵庫下髪の廃たるを患ひ、是を油画に遺して其古典を存ぜんと、例の高橋由一に託し、又各娼妓に商議しに、皆野変の錦絵に画れん事を欲して疾に肯ずるなし。独り稲本楼抱へ小稲悠然として之を諾ひ粧ひ十二分に飾り由一に会して則姿を写させたりと。 — ﹃東京日日新聞﹄1872年4月28日一面より[7]。制作[編集]
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制作年代論争[編集]
本作品の制作年代は1872年︵明治5年︶の新聞記事を始め極めて有力な資料が遺存していることなどから、1872年︵明治5年︶とするのが定説であるが、土方定一を始めとする一部の美術史家の間で、由一に技術指導を行ったアントニオ・フォンタネージと出会う前の作品としては完成度が高すぎるという指摘があり、定説に対しての疑問が投げかけられた[12]。高階秀爾や芳賀徹、青木茂らが定説の1872年︵明治5年︶説を支持した一方で、神奈川県立近代美術館で1971年︵昭和46年︶に開催された﹁高橋由一とその時代展﹂では1876年︵明治9年︶から1882年︵明治15年︶ごろ、﹃高橋由一画集﹄の作品解説を担当した副島三喜男は1872年︵明治5年︶から1876年︵明治9年︶ごろ、土方定一はフォンタネージとの接触以降、﹃鮭﹄の制作以前として1877年︵明治10年︶ごろとするなどの説を展開した[13]。 こうした論争が起きた背景には、研究者たちが資料的には1872年︵明治5年︶制作が妥当であるが、用いられた技法的にはフォンタネージの影響を無視できないため、それ以降が妥当であるとする二律背反に苛まれた点のほか[14]、高橋由一の作品自体に注目が集まり、真面目に研究され始めたのが神奈川県立近代美術館が展示会を開催した1971年︵昭和46年︶以降と、かなりの時間が経過してからだったという点も挙げられる[12]。評価[編集]
﹃花魁﹄について美術史家の原田実は﹁つよい筆力が外形の写生の域をこえて人物の情感にまで及んでおり、人物画の中でも屈指の作となっている﹂と評価している[15]。高階秀爾は﹃花魁﹄に使用されている平面で装飾的な色彩配合はピーテル・パウル・ルーベンスやウジェーヌ・ドラクロワとは似ても似つかず、歌川国芳や歌川国貞といった浮世絵師に近しいものがあるとし、日本特有の色彩感覚が油絵という西洋技法で表現されていると指摘している[16]。土方定一は1899年︵明治32年︶以来、開催されていなかった由一の展覧会開催に尽力し、由一が再評価される契機となった1971年︵昭和46年︶の﹁高橋由一とその時代展﹂を実現させ、初の画集﹃高橋由一画集﹄を刊行した[17]。こうした活動は﹃花魁﹄や﹃鮭﹄といった由一の作品が国の重要文化財に指定される大きな要因になったとされている[18]。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ “花魁〈高橋由一筆/油絵 麻布〉”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2024年2月11日閲覧。
- ^ 『花魁』 - コトバンク
- ^ a b c 吉田 2012, p. 67.
- ^ 吉田 2012, p. 10.
- ^ a b c 吉田 2012, p. 69.
- ^ 吉田 2012, p. 73.
- ^ a b c 吉田 2012, p. 66.
- ^ a b c d e 吉田 2012, p. 70.
- ^ 吉田 2012, p. 71.
- ^ 吉田 2012, pp. 67–68.
- ^ a b 吉田 2012, p. 68.
- ^ a b 隈元 1975, p. 35.
- ^ 高階 1990, p. 67.
- ^ 高階 1990, p. 68.
- ^ 原田 1973, p. 8.
- ^ 高階 1990, p. 26.
- ^ 吉田 2012, p. 163.
- ^ 吉田 2012, p. 164.