荘子 (書物)
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﹃荘子﹄︵そうじ、そうし︶は、荘子︵荘周︶の著書とされる道家の文献。現存するテキストは、内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇の三十三篇で構成される。
伝来[編集]
現在の学界では﹃荘子﹄は、内篇のみが荘周その人による著書で、外篇と雑篇は後世の偽書であるとの見方が主流であるが、確証はない。なお、古代では、全篇が荘周の真作であるとされており、それを疑ったのは蘇軾が最初であった。﹃史記﹄﹁老子韓非列伝﹂によれば﹃荘子﹄の書は十万余字であった。﹃漢書﹄﹁芸文志﹂によれば、元は五十二篇あったという。 金谷治の説では、これらの篇が﹃荘子﹄として体系化されたのは﹃淮南子﹄を編集した淮南王劉安のもとであろう。老子と荘子をまとめて﹁老荘﹂と称すのも﹃淮南子﹄からである。 晋代、郭象は漢の時代の荘子テキストを分析して、荘周の思想と異なるものが混じっていたために10分の3を削除して、内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇にまとめ、現在の三十三篇に整備した。それが現行の定本となっている。現在の字数は約6万5千字である。郭象はまた﹃荘子注﹄という注釈書も残した。 唐の時代、道教を信仰した玄宗皇帝によって荘子に﹁南華真人(南華眞人)﹂の号が贈られ、書物﹃荘子﹄も﹃南華真経(南華眞經)﹄と呼ばれるようになった。他書との関係[編集]
﹁老荘﹂といわれるように、老子と荘子の間には思想的なつながりがあると思われがちだが﹁内篇﹂についてはない。のちに前述の淮南王劉安のところで﹃老子﹄と﹃荘子﹄が結びつけられ、外篇、雑篇の中にはその路線で書かれたものもある。 一方﹃論語﹄など儒家の文献を荘子が読み込んでいたことは﹃荘子﹄の中に孔子がたびたび登場することからわかる。儒家の中でも、同時代の孟子などとは繋がりがなかったようである。 列子︵列禦寇︶は荘子の先輩の道家思想家である。﹃荘子﹄の中にも列子が出てくる話がある。ただ現在残る﹃列子﹄は道教的でありながらも眉唾とも見られる話もしばしば載る書物であり、列子その人の作とは考えられない。﹃列子﹄と﹃荘子﹄の間には同じ話が出てくるが、おそらく﹃荘子﹄の方が先で、﹃列子﹄がそれを取り込んだのであろうと考えられる。内容[編集]
﹃荘子﹄は無為自然を説く。ただしその内容は、各篇によってさまざまである。 森三樹三郎によれば、内篇では素朴な無為自然を説くのに対し、外篇、雑篇では﹁有為自然﹂すなわち人為や社会をも取り込んだ自然を説いているという。 雑篇になると、たとえば﹁譲王篇﹂﹁盗跖篇﹂﹁説剣篇﹂﹁漁父篇﹂のように、あきらかに荘子本来の思想ではないものも混じっている。 固有名詞をまったく使わない﹃老子﹄と違って﹃荘子﹄の中には実在の人物のエピソードが数多く含まれている。もっともそれらのほとんどは寓言であり、歴史的資料になるものではないが、当時の風俗を知る上で貴重な資料となっている。登場回数が多いのは孔子とその弟子たちで﹃荘子﹄では、孔子は道化役にも、尊敬すべき人ともされている。荘子の思想の形成について[編集]
中国の古い書物はそのほとんどが、一人の著者のみで書いたものではなく、時代を変遷して、多数の著者の手により追記編集されていったものであるとされている。その門流の人々は、次々にその原本に書き足していったものを、全体として構成し直し、それをその発端者の名前で呼んでいるようである。そのため、荘子の思想について見る場合、最初の著者か、その思想に準じた別の著者の思想を合わせたものを、荘子の思想として検討してゆくことが妥当であるといえる[注 1]。また、﹃荘子︵書物︶﹄は、荘周の死後、複数の著者の書いた、未整理の原稿のような状態で、漢代まで伝えられたとされている[1]。その後、編集者の手により、現行よりも多い52編の書として、まとめられたとされる。荘子における﹁道﹂の区分について[編集]
荘子の場合、﹁道﹂についての記述は、二種の思想に区分できる。普遍的法則としての道[編集]
﹁道﹂と﹁無為﹂とを同一視して考える。また、﹁無為﹂と、﹁自然の為すところ﹂とが同一視されている。﹁天の為すところ﹂は、﹁自然の為すところ﹂と同一視され、これらを念頭に生きることは、至人の境地に至るための不可欠な道標であるとされる。荘子には、﹁道﹂という語があまり出てこないのは、そのためであると思われる。至人は、物との調和を保ち、その心が無限の広さを感得することをもって善しとする。︵大宗師篇︶[注 2][注 3]。﹁道﹂に従う生き方からすると、人間的愛情は不自然なものであり、道徳的行為は、世の名声を得るためのものでしかない、とされる[2]。根本的実在としての道[編集]
道は万物が皆よって生ずる根本的な一者であるとしている。道は無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている[3]。また、根本的な一者としての﹁道﹂は、無限なる者であるとされる[4]。 自然の道から見れば、分散することは集成であり、集成することは、そのまま分散破壊することに他ならない。道を体得するとは、すべてを通じて一であることを知るということである。すべてのものは、生成(無為︶と破壊・分散︵有為︶の区別なく道において一となっている︵斉物論篇︶[5]。 道とは徳の根源である。生とは徳が発する光に他ならない。︵庚桑楚篇︶。万物はすべて尊ぶべき徳を持つ[6]。荘子における万物斉同の区分について[編集]
荘子の思想の中心は、万物斉同の説であるとする見解がある[7]。万物斉同の説を説く主体の立場としては、自らを﹁道﹂の立場に置いて、是非善悪をも斉同と見る立場と、老子のように自然や道の徳と人為とを対比的に考える立場︵慈を尊重する立場︶とがある。善悪是非を同じと見る説[編集]
万物斉同の立場に立つものにとっては、富貴、貴賤、長命短命、幸不幸と呼ばれている差別の姿は、すべて人為的な虚妄に過ぎないとされる[8]。 気というものは、己を虚しくして外物を受け入れるものである。道こそは、この虚しさにあつまる。虚しさこそ心斎であるとされる。︵人間世篇︶[注 4]。自然や道の徳と人為とを対比的に考える説[編集]
足切りの刑を受けた者が、﹁私は自分の過失を弁解しないでおいた。この過失について考えた結果、足を切らずに残しておくのは、よくないことだと思ったからである﹂と言った。万物斉同で善悪も斉同であるとするならば、過失を悔い改めることと、悔い改めずにさらに重大な過失を犯すことは同じことになり、善い生き方をしてゆこうとする必要がなくなるということが主張できる。しかし、彼は、﹁鏡がさびないで光っていれば、ちりはつかない。ちりがつくようであれば、その鏡はさびている証拠である。久しく賢人とともに暮らすようになれば、あやまちをしないようになる﹂、と言った。︵徳充符篇 三︶。 世俗道徳というものは、身につけようと努力しなくても、自然に身に備わっていると考えられている[9]。 万物という語を﹁人生﹂という語に置き換えると、自己意識を喪失することなく、人生のすべてをそのままに良しとして引き受ける態度が、万物斉同における徳であるといえる。道は、すべてのものを等しく育んでいるとされる。荘子は、﹁これこそが、至上の徳である﹂︵人間世篇︶としている[10][注 5]。 万物斉同の前提として、自らの心のちりを払い、悪いことをしないようになる、という生き方が選択されている必要があるようである。老子や荘子が過去の賢者と同じ、悟りにおける﹁出起する道﹂を体得したものであるとするならば、﹁道﹂にかなった万物斉同の思想は、悪しきことをなさず、自己の心を浄めるということの上に概念化すべきものであるといえる[注 6]。自らの心のちりを払う生き方は、ブッダが伝えたとされる諸仏の教えと同じような教えであるといえる。諸仏の教えとは、﹁すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸々の仏の教えである﹂︵法句経183︶という教えのことである[注 7]。荘子におけるさまざまな心境について[編集]
﹃荘子︵書物︶﹄における各編集者ごとの心境は、次の五種に区分できる。坐忘的な至人としての心境[編集]
坐忘とは、﹁天地の一気に遊ぶ﹂絶対者の境地に他ならない。﹁忘れること﹂が、絶対者と合一した究極の境地であるとされる[注 8]。大宗師篇には、﹁三日目に天下の存在を忘れる境地になり、七日目には、物の存在を忘れることができるようになった。九日目には、自分が生きていることを忘れるようになった﹂、とある。 われに対する他者を忘れ、天地の変化のうちに没入して一体となり、絶対の境地に入る者こそ、至人にほかならない、とされる[11][注 9]。﹁ 形のない天﹂を愛する至人としての心境[編集]
人間は、自分を生んでくれた﹁天﹂について、これを父として愛するものである。まして、これよりも卓越した、﹁形のない天﹂︵運命のこと︶を愛することができない道理があろうか、とする[注 10]。 至人は、与えられたものに選択を加えず、その運命のままに、すべてを肯定してゆく。﹁人がつき従う形とは、時の変化のままに従い、明日にも消え去る定めのものではないだろうか﹂、という句がある。︵斉物論篇︶[注 11]。運命の内容は、死生存亡、窮達貧富、賢不肖、毀誉、飢渇、寒暑と示されている。ここには、賢不肖のような先天的なものも含まれているとされる[12]。古来よりの考え方との関連[編集]
古代中国において、天は超人的な宇宙の支配者として絶対視された。中国が天を畏敬するようになったのは、紀元前1700年頃よりのこととされる[注 12]。 中国民族の運命観とは、天命思想であった。古代においては、人格神であった天帝が、天命を下すと信じられてきた。しかし、時代がたつにつれて天の人格性が薄れ、やがて天道や天理といったロゴス的存在に転化していったとされる[13]。大戒について[編集]
一つ目の大戒は、子が親を愛することは命であり、自然の道によって定められているということである。もう一つは、臣下が君主に仕えるのは義である、ということである。この天地のあいだで、君臣の義からのがれる場所はない、とされ、民は、その君主の持ち物であるとされる。︵人間世篇︶。たとえ聖人が戦いをおこして国を滅ぼすようなことがあっても、それは必然の運命に従ったまでである︵大宗師篇︶とする[14]。 上古の真人は、その表面はいちおう世間と同調するように見えるが、しかし、徒党を組むようなことはしない、という句は、刑・礼・知・徳という世俗の規定を、一応肯定している[15]。胡蝶夢的真人としての心境[編集]
多くの人は、寝ているときは、夢の中で魂が交わる。さめているときは身体の感覚が働いて外物に接する。︵斉物論篇︶。 ﹁胡蝶の夢﹂においては、身体は自己︵魂・意識︶の外形である[16]、とした場合、夢の中では自己意識を持たない蝶に化することがあるということが語られている。これは、形の上では大きな違いがありながら、ともに自己という存在であることに変わりがなかった、ということが語られている。意識の世界においては、胡蝶と荘周、そのいずれもが真実であるとされる[17]。自己意識を持たないものに変化することができるという点からすると、大鵬や無為や大道についても、これと一体化することはできそうである。これとは逆に、自己意識を有する者︵人間や鬼神︶に関しては、これとは同化できないようである。生活者としての真人の心境[編集]
荘周は、宋の王室御用の漆を栽培する畑の管理役をしていたとされる。役人としての地位は、労務者の取り締まり程度のものであったとされる[18]。また、自由の境涯を享受していたので、生活は貧窮していたとされる。荘周は、妻子を養っていたという記述もある[19]。妻の葬式の時に、子供を育て、年老いた夫婦として暮らしていたということを弔問客から言われるような生活者であったようだ。︵至楽篇︶。真人には、世間の中で暮らす老人、という表面上の姿の奥に、真の孤独の境地に住する者という隠れた姿があるようだ。 真人とは、いつでも真実の自分の心のうちの徳をたのしみつつ、その境地に静止している人、真実の自分に目覚めた人のことであるといえる。︵大宗師篇 四︶身体について[編集]
天地の自然は、自分をのせるために身体を与え、自分を働かせるために生を与えている。︵大宗師篇︶[20]。 身体には、百の骨節、九つの穴、六つの内臓がすべてそろっている。身体の各部分は、召使の身分にあるということになるであろう。その主宰者は天であり、道であり、自然であり、運命であり、絶対的な一者である[21]。 人間の身体は、さまざまな異なったものをかり集め、これを一つの形体に作り上げたものでしかない。人間は生死の循環を無限に繰り返し、終わりも始めも知るよしがない。︵大宗師篇︶。心について[編集]
心にも、目や耳がある。︵逍遥遊篇︶。心の世界はある[22]。身体は自己の外形である[23]。 心が有であり、限定を持った存在であるならば、無限の包容性を持つことはできないであろう[24]。 精神のはたらきは四方の果てまでに達し、いっせいに流れ出して、及ばないというところはない。上は天にまで届き、下は地に広がり、万物を変化生育させ、その霊妙なはたらきは形容する言葉もないほどである。しいて名づけるならば、天帝に等しいともいえよう。︵刻意篇︶ 純粋素朴の境地を得るための道は、自分の精神のはたらきを失わないように守ることである。もし精神を護って失うことがなければ、自分の身も精神と完全に一つになることができる。そのひとつになったところに生まれる霊妙なはたらきは、さらに天に通じ、天地自然の道に合一するのである。︵刻意篇︶人生苦について[編集]
人間は、自己を外物のうちに見失い、わが本性を世俗の内に喪失しやすい存在であるとされている。この状態にある人を、倒置の民︵さかだちをした人間︶と、荘子は呼んでいる。︵繕性篇︶。本当の自分を見失いやすい外物とは、仁義であり、世間的な名声であり、欲望をさそう財貨であり、五味、五色、五声であるとされている[注 13]。 欲望のうちに固く閉じ込められている、という表現は、老いていよいよ道を踏み外す人間の形容にふさわしい、とされている︵斉物論篇︶[25]。また、人が病気になったときに、死を恐れ、生に執着することは、運命にさからう人間の妄執であるとされている[26]。 死というものについて荘子は、魂が肉体の束縛から解放されて、自由の天地に向かって飛び去ることであるとしている。︵知北遊篇︶[27]。荘子は、妻の葬式の時に、﹁わしとても、妻が死んだ当初には、なげきの気持ちがなかったわけではない﹂と、語ったが、死は天地の巨室に憩うことだと考えなおした、ということが、記されている。︵至楽篇︶魂について[編集]
天地がまだ存在しない太古から、すでに存在している道を体得した者は、道が帝を神とし、鬼を神としているさまを知る[28]、としているところから、荘子は、死後の世界についての明確な認識を持っていたようである。 多くの人は、寝ているときは夢の中で魂が交わる。覚めているときは、身体の感覚がはたらいて外物に接する。︵斉物論篇︶ ﹁死の世界には、君臣のわずらわしさや、寒暑の苦しみもない。のんびりと天地の無限の時間を楽しく暮らすばかりだ﹂。︵至楽篇︶ 死の世界も案外楽しいものだ。︵斉物論篇︶[注 14]。自己のあり方を正すことについて[編集]
もし喜怒哀楽の情をもたらす根源がなければ、自分という人間も存在することはできないであろう。逆にもし、自分という人間が存在しなければ、その根源から喜怒哀楽の情を取り出すものもないであろう。その根源と自分とは、至近の距離にあるはずであり、そこには、隠れた主宰者があるように思われる、とされる。︵斉物論篇︶[注 15]。鬼神について[編集]
殷商時代︵前1500年頃︶には、人々は鬼神を崇拝していた。人は死んでも霊魂は滅びず、鬼神となることを信じていたとされる[29]。神について[編集]
古より伝わる﹁神を養う道﹂というのは、純粋をたもち、心を静かにして、道と一体となって、無為であり、天行であることであるとされている。神は、自然の霊妙な働きであると同時に、人間の内に内在して心のはたらきとなるものであるから、人格的なものではないとも、人格的なものであるとも言うことができる。純粋をたもち、心を静かにして、喜怒哀楽の情に動かされなくなった人間には、神性が養われ、道と一体となることができるようである[30][注 16]。師心について[編集]
師心とは、心を師とするということである。︵人間世篇︶。成心は天性の心であり、自然に与えられたものであるから、いろいろとあるうちから選択して得たものではない[31]。 自分に自然に備わっている心に従い、これをわが師とする。どんな愚か者でも、これを心に備えている[32]。︵斉物論篇︶ 世俗道徳というものは、身につけようと努力しなくても、自然に身に備わっていると考えられている。荘子は、必ずしも世俗道徳を否定しておらず、強要等を否定しているのである[9]。︵徳充符篇︶天道について[編集]
天地の正に身をのせる、とは、天地自然の正しいあり方にそって生きるということである[33]。 聖人の政治は、制度によって外物を治めようとするのではなく、まず、自分の在り方を正してのち、これを人に施すのである[34]。︵応帝王篇︶天倪について[編集]
天倪︵てんげい︶とは、差別を超えた自然の立場で和するということ。天倪をもって対立を和合させるとは、それぞれの人間の限定された主観や思い込みからくる対立をとらわれのない立場から見て、消失させること。 いっさいの対立︵男女、民族、宗教、国家︶を、天倪によって和合させ、自由無碍の境地のうちに包容することこそ、真に永遠に生きる道であるとしている[35]。こうして、時間的・空間的に無限の世界における自在の境地に生きることができる。︵斉物論篇︶。真人の心は、物との調和を保ち、無限の広さを持つのである[36]。根源的な真人や聖人における心境[編集]
聖人における﹁聖﹂という概念には、倒置の状態︵自己を外物のうちに見失い、自らの本性を世俗の内に喪失した状態︶から完全に脱することができた真人という意味合いがある。聖人の境地とは、およそ無心のままに静けさを保ち、欲望に動かされずに安らかであり、静まりかえって作為から離れていることとされる。それは、天地の安定した姿のうちにあり、自然のままの道徳の極致を体現した聖なる存在であるとされる。︵天道篇 二︶[注 17]。聖人における﹁道﹂について[編集]
聖人にとっては、すべてのものが、生成(無為︶と破壊・分散︵有為︶の区別なく道において一となっている[5]ことが感得できるとされている。道は、万物が皆よって生ずる根本的な一者であるとしている。道は無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている[3]。また、﹁道﹂は、無限なる者[4]として、天地のまだ存在しない大古から、すでに存在しているものであり、これを感得する者は、霊妙な力を持つ天帝や鬼神の存在についても知ることになる、とされている。︵斉物論篇 九︶。自得について[編集]
自得とは、最初の段階では、自分自身の在り方に満足することであり、与えられた運命のままに生きるという随順の立場と変わりがないといえる。しかし、これは、自分の﹁外なる物﹂という自分の本性でないものと自分の内にある本性とを弁別して、自らの本性を選択し続ける、という段階につながっている。その外物とは、仁義であり、世間的な名声であり、欲望をさそう財貨であり、五味、五色、五声である。これらの外物を遠ざけ、退けるところにはじめて自然の性が保たれるのである、とされる[16]。 道の徳を身に得た者は、徳を傷つける知識を得ようとはしない。だから、﹁ただ自己のあり方を正すことがすべてである﹂。このような自己本来の立場にあって、完全な楽しみを得ること、これを﹁わが志を得る﹂というのである。︵繕性篇︶。道の徳を身につけることについて[編集]
天地の徳を明白に知る者は、いっさいの根源を宗とする者であるといえる。それは天との和合をもたらすものであり、また、天下万物に調和を与え、人との和合をもたらすものである。︵大宗師篇︶。 道とは徳の根源である。生とは徳が発する光に他ならない。︵庚桑楚篇︶[6]。無為の益と老子の不言の教との関係について[編集]
荘子は、人間の心のはたらきは、無数の意識されない自然のはたらき︵無為の益︶によって、その根底を支えられているとしている。たとえば、多くの内臓の無意識のはたらきがなければ、心のはたらきもあり得ない、とするのである[37]。天が営む自然の働きを知るとは、人知の及ばない自然の大きなはたらきを、自らに養うことである、とされる。︵大宗師篇︶[注 18]。 老子道徳経においても、無為の益について語られている。無為の益とは、世の中でそれに匹敵するものはほとんどないとされる[38]。道の働きの中に感得される不言の教とは、人知の及ばない自然の大きなはたらきを見た時に、そこに現れている無為の益を人が感じ、それに学ぶことを指している。例えば水を見て、人が何かを学んだとした場合、言葉によって水が無為の教えを教えたわけではないので、言葉を超越した教えであるという意味で、不言の教とする[39][注 19]。後世への影響[編集]
●荘子は特に晋代に好まれた。竹林の七賢の一人阮籍は、もっとも老荘を好んだと﹃晋書﹄に記されている。荘子のテキストが確定したのも晋代である。 ●郭象注以外の主な注釈としては、唐の成玄英﹃荘子疏﹄、陸徳明﹃荘子音義﹄がある。宋の林希逸﹃荘子口義﹄は、江戸時代日本で広く読まれた。明の焦竑﹃荘子翼﹄は、明治時代に冨山房漢文大系に収録された。﹃封神演義﹄の著者の一人とされる明の陸西星にも注釈書﹃荘子副墨﹄がある。 ●荘子は中国や日本の文学者に広く愛読され、李白・杜甫・蘇軾・魯迅・卜部兼好・松尾芭蕉・服部南郭などが影響を受けている。佚斎樗山﹃田舎荘子﹄など近世文学の談義本にも影響を与えた。湯川秀樹は荘子を好み、学会の席上で荘子を論じたこともある。福永光司の訳と研究が有名である。各篇の題名[編集]
●内篇 ●逍遙遊篇 ●齊物論篇 ●養生主篇 ●人間世篇 ●徳充符篇 ●大宗師篇 ●應帝王篇 ●外篇 ●駢拇篇 ●馬蹄篇 ●胠篋篇 ●在宥篇 ●天地篇 ●天道篇 ●天運篇 ●刻意篇 ●繕性篇 ●秋水篇 ●至楽篇 ●達生篇 ●山木篇 ●田子方篇 ●知北遊篇 ●雑篇 ●庚桑楚篇 ●徐无鬼篇 ●則陽篇 ●外物篇 ●寓言篇 ●譲王篇 ●盗跖篇 ●説剣篇 ●漁父篇 ●列禦寇篇 ●天下篇完訳書[編集]
●明治書院︿新釈漢文大系7・8﹀、市川安司・遠藤哲夫訳・注解 (一)上巻 内篇 - ISBN 9784625570070。﹁老子﹂を併録 (二)下巻 外篇・雑篇 - ISBN 9784625570087 ●岩波書店︿岩波文庫﹀全4巻、金谷治訳。ワイド版も刊 (一)第一冊 内篇 - ISBN 4003320611 (二)第二冊 外篇 - ISBN 400332062X (三)第三冊 外篇・雑篇 - ISBN 4003320638 (四)第四冊 雑篇 - ISBN 4003320646 ●中央公論新社︿中公クラシックスI・II﹀、森三樹三郎訳、池田知久 新版解説。旧版は中公文庫︵全3巻︶ (一)第一冊 内篇・外篇 - ISBN 4121600169 (二)第二冊 外篇・雑篇 - ISBN 4121600193 ●筑摩書房︿ちくま学芸文庫﹀全3巻、福永光司・興膳宏訳 (一)内篇 - ISBN 4480095403 (二)外篇 - ISBN 4480095411 (三)雑篇 - ISBN 448009542X ●﹃荘子 全現代語訳﹄ 講談社学術文庫 上・下、池田知久訳・解説 (一)内篇・外篇 - ISBN 4062924293 (二)外篇・雑篇 - ISBN 4062924307参考文献[編集]
●﹃世界の名著4老子 荘子﹄中央公論社 1978年 - 老子 小川環樹訳・責任編集 、荘子 森三樹三郎訳脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ﹃荘子﹄内篇の大部分については、最初の著者のようであるとされている﹃老子・荘子﹄講談社学術文庫 1994年 P164 森三樹三郎
(二)^ こうした思想は、後代になって、解脱を目的とする禅宗の成立に大きな影響を与えたとされる。︵出典﹃世界の名著4老子 荘子﹄中央公論社 1978年 P256の注 小川環樹︶
(三)^ また、﹁明﹂によって照らすとは、是非の対立を超えた明らかな知恵を持つことであり、絶対的な智慧を指し、こては仏教でいう無分別智にあたるとされる︵出典﹃老子・荘子﹄講談社学術文庫 1994年 P178 森三樹三郎
(四)^ 万物斉同においては、善悪是非までをも同じと見ることが一般的である。この場合、己を虚しくするために、自己意識は内外斉同の観点から、独断的なものとなりやすい。
(五)^ 胡蝶の夢の場合のように、意識の世界に対面するものとして万物を見た場合、自己意識を忘失することは、個々の存在に遍在する道の性を無視することにつながっているといえる。
(六)^ 初期仏教の経典の中には、サーリプッタが解脱をしたときに、ゴータマ・ブッダが﹁再びこの存在に戻ることはないと開悟したことを明言したのか﹂と問うたとき、﹁内に専心して、外の諸行に向かうときに道が出起して、阿羅漢位に達した﹂と語ったとされる。他に、﹁内に専心して、内に向かうと道が出起﹂、﹁外に専心して外に向かうと道が出起﹂﹁外に専心して、内に向かうと道が出起﹂という四通りがあるとされる。︵出典﹃原始仏典II相応部経典第2巻﹄P596 第1篇注60 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳︶
(七)^ ブッダよりも以前に悟った賢者はみな、この教えを伝承したとされている。︵出典﹃ブッダの真理のことば 感興のことば﹄岩波書店1978年P105 真理のことば訳注 中村元︶
(八)^ 坐忘は、仏教的な解脱と関連があると見ることができる。︵出典﹃老荘を読む﹄講談社 1987年 P222 蜂屋邦夫︶そう見た場合、至人とは、解脱に至った人という解釈が成り立つようである。
(九)^ 至人の心は鏡のように、すべて形に応じてその姿を映すとされている。鏡の面それ自体はいわば虚無である、とされる。︵出典﹃世界の名著4老子 荘子﹄中央公論社 1978年 P289の解説 小川環樹︶
(十)^ ︵大宗師篇︶。人間は天が生んだとするのは、中国人一般の信仰をさす。荘子にとっての天は、非人格的な運命というものであった。﹃世界の名著4老子 荘子﹄中央公論社 1978年 P259の注 小川環樹
(11)^ 運命への随順をその思想の帰着点とする編集者もある。﹃世界の名著4老子 荘子﹄中央公論社 1978年 P201解説 小川環樹
(12)^ こうした天への畏敬は、儒教の時代に天道として発展した。︵出典﹃タオ=道の思想﹄講談社 2002年 P31 林田慎之介 ︶
(13)^ このような考え方は、﹁老子﹂にも見られるものであるとされる︵出典﹃世界の名著4老子 荘子﹄中央公論社 1978年 P40解説 小川環樹︶
(14)^ 荘子は死の世界の楽しみを説いたために、六朝時代などには、荘子は死を楽しいとし、生を厭うと説いたという理解が行われていたようである。﹃老子・荘子﹄講談社学術文庫 1994年 P86 森三樹三郎
(15)^ その根源と自分とは至近の距離にある、という見方は、自分の心を主人のように大切にすることと、天地の正道に身をのせることとは、意識の転換によって合一する類のものであると解釈できる。
(16)^ その人間が死ぬと、霊妙な力を持つ鬼神となり、さらにその中から、帝神が出でるとも読むことができる
(17)^ 欲望に動かされずに道徳の極致にいたるというのは、諸仏の教えに通ずるものであると見ることができる。
(18)^ 例えば太陽の熱と生存環境、空気と循環器系、食物と消化器系などがあげられる。
(19)^ 大自然の法則は、無言の中にも、たえず人間に真理を教えているとする見解がある。︵出典﹃心の発見科学編﹄株式会社経済界1971年P138 高橋信次︶
出典[編集]
- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P29解説 小川環樹
- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P256の注 小川環樹
- ^ a b 『中国古典文学大系4』平凡社1973年 P64 金谷治
- ^ a b 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P89森三樹三郎
- ^ a b 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P184森三樹三郎
- ^ a b 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P472 小川環樹
- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P31解説 小川環樹
- ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫 1994年 P81 森三樹三郎
- ^ a b 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P250の注 小川環樹
- ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P81森三樹三郎
- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P159の注 小川環樹
- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P248の注 小川環樹
- ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫 1994年 P89 森三樹三郎
- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P255 小川環樹
- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P259解説 小川環樹
- ^ a b 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P40解説 小川環樹
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- ^ 『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 老子・荘子』角川学芸出版 2004年 P198解説 野村茂夫
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- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P159 小川環樹
- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P282 小川環樹
- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P200 小川環樹
- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P255 小川環樹(大宗師篇)
- ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P253の注 小川環樹
- ^ 老子道徳経第43章
- ^ 『老子』岩波書店2008年P207 注5 蜂屋邦夫