菅舜英
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すが しゅんえい 菅 舜英 | |
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生誕 |
1872年![]() |
死没 |
1956年(85歳)![]() |
国籍 |
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出身校 |
東京哲学館 東京神学院 |
職業 |
僧侶 政治活動家 |
概要[編集]
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井上円了の東京哲学館、東京神学院で学び、西本願寺北海道開教の僧侶として渡道。本山特命布教使として各地で布教講演を行う。日露戦争で従軍布教使として従軍し、乃木希典陸軍大将に講話を披露。以後、シベリア出兵などで中国、ロシアへ度々渡る。勇払郡安平村︵現・安平町︶安立寺住職に就いてからは、言論出版に精を出す。
個人雑誌﹁同志﹂﹁浄土﹂﹁他力﹂などを発行し、新聞雑誌への論文投稿も数多い。交友関係は広く、本願寺の改革運動で知り合った赤松克麿と親しく、赤松のすすめで社会民衆党公認で衆議院議員選挙に戦前だけで3度立候補している。当初はロシア革命に共鳴して社会主義を唱えたが、赤松と行動を共にするなかで次第に右傾化し、日本国家社会党、国民協会、日本革新党の結党などに参画している。1937年︵昭和12年︶の国政選挙では、赤松が北海道から出馬する手引きをし、選挙事務長を務めた。
アイヌ活動家辺泥和郎は菅の思想に影響を受けたという。
生涯[編集]
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1872年︵明治5年︶、石川県羽咋郡南邑知村字菅原︵現・宝達志水町︶の浄土真宗本願寺派明専寺に菅慶誓の長男として生まれる。幼名英丸。1889年︵明治22年︶、県立金澤中学校︵後の第四高等学校︶卒業。1890年︵明治23年︶、東京哲学館卒業。1891年︵明治24年︶、東京神学院伝道部卒業。
1893年︵明治26年︶、父慶誓に伴って開教のため北海道へ渡る。札幌県白石村字厚別安楽寺衆徒。同月寒で布教に、厚別・夕張で児童教育にあたる。1899年︵明治32年︶、論文﹃浄土真宗撲滅論﹄発表。1902年︵明治35年︶2月、得度。同年6月、教師。同年8月、布教会員。
1904年︵明治37年︶、日露戦争に際し第8師団従軍布教使として大連港で布教。1904年︵明治37年︶、第3師団従軍布教使に付く。1906年︵明治39年︶、日露戦争後の満州法庫門に慰問部員として駐在。
1907年︵明治40年︶、勇払郡安平村追分安立寺住職に任命。結婚。本願寺改革運動に参加。1910年︵明治43年︶、個人雑誌﹃同志﹄発刊。以後、毎月発行。1913年︵大正2年︶、本願寺改革運動にかかる中央同志会を発足。この頃、赤松克麿と知己を得たと思われる。
1915年︵大正4年︶、第7師団従軍布教使に付く。1917年︵大正6年︶、南満州鉄道守備隊を慰問のため満州へ出張布教。1918年︵大正7年︶、シベリア出兵に際して第7師団派遣軍に従軍、浦潮斯徳︵ウラジオストク︶布教所駐在員。1919年︵大正8年︶、ウラジオストクの東洋学院日本語教師に就く。1920年︵大正9年︶、5月、尼港事件発生。救援隊と共にニコラエフスクに入る。帰国後、個人雑誌﹃浄土﹄発刊。
1924年︵大正13年︶9月、社会主義思想の流布の容疑で北海道庁警察部により﹁特別要視察人甲号︵共産主義︶﹂に編入。
1928年︵昭和3年︶2月、第16回衆議院議員総選挙に日本農民党公認候補として立候補、落選。
1929年︵昭和4年︶、社会民衆党に入党、胆振支部顧問。同年、北海道の僧侶有志による後援会組織﹁舜英会﹂発足。1930年︵昭和5年︶、第17回衆議院議員総選挙に再び立候補。善戦するも落選。
1932年︵昭和7年︶4月、日本農民組合北海道聯合会を組織し、会員400名を集めるが、異安心を問われて真宗の僧籍剥奪さる。同年、赤松らと共に社会民衆党脱党、日本国家社会党結党に参加し、中央委員、北海道胆振支部長を務める。1933年︵昭和8年︶、かねてから親交のあった出口王仁三郎を頼り、大本教に転身。同年、赤松と共に日本国家社会党を脱退。
1936年︵昭和11年︶、赤松の組織した国民協会に転じ、空知支部を結成。同年、北海道議会議員選挙に室蘭から出馬、落選。
1937年︵昭和12年︶4月、第20回衆議院議員総選挙北海道第4区で赤松克麿の選挙事務長。赤松は最高点で当選。直後、日本革新党の結成に加わる。1940年︵昭和15年︶11月、維新翼賛北海道聯盟の結成に関与し、同聯盟顧問に就く。1941年︵昭和16年︶2月、維新翼賛北海道連盟理事。同年、本山より僧籍復帰を許可される。
1946年︵昭和21年︶、第22回衆議院議員総選挙に北海道大選挙区より出馬するも、次点で落選。
1956年︵昭和31年︶、安立寺にて85歳で死去。
著作[編集]
参考文献[編集]
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- 『新札幌市史 第3巻』北海道新聞社、1994年