蒲原有明
蒲原 有明︵かんばら ありあけ、1875年︵明治8年︶3月15日 - 1952年︵昭和27年︶2月3日︶は、日本の詩人。本名は蒲原 隼雄︵かんばら はやお︶。東京生まれ。
D・G・ロセッティに傾倒し、複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人として、﹃独絃哀歌﹄﹃春鳥集﹄﹃有明集﹄などを発表。薄田泣菫と併称され、北原白秋、三木露風らに影響を与えた。
生涯[編集]
東京市麹町区隼町に、佐賀藩出身の蒲原忠蔵、石川ツネ︵1879年入籍、のち離婚︶の子として生れた。地名にちなみ隼雄と名付けられた。生まれつき体が弱かった。平河小学校︵現・千代田区立麹町小学校︶、東京府尋常中学校︵現・都立日比谷高校︶を卒業し、第一高等中学校︵のちの一高︶を受験したが失敗。国民英学会で学び、卒業後小林存や山岸荷葉らと同人雑誌﹁落穂双紙﹂を発刊し、ここに初めて詩を載せた。
1898年、読売新聞の懸賞小説に応募した﹁大慈悲﹂が当選し[1]、一時期小説を書いたが、すぐに詩作に専念する[1]。巖谷小波の木曜会に顔を出すようになり、D.G.ロセッティの訳詩や新体詩集﹃草わかば﹄を出版した。さらに上田敏の訳詩に強く影響を受け、﹃独絃哀歌﹄﹃春鳥集﹄を刊行し、象徴主義を謳歌する。このころ青木繁と親交を結ぶ。
1908年に刊行した﹃有明集﹄で象徴詩手法を確立し、薄田泣菫と併称された。だがすでに時代は自然主義の流れに向かっており、文壇から激しく批判され孤立するとノイローゼに陥った。大正以後は文壇を離れて詩の改作を行ったが、作品の質は改作前の方が高いという意見が多い。さらに、フランス象徴派の翻訳や散文詩の創作を試みたが、フランス語は不得手だったこともあり、発表したのは少数だった。
1919年に鎌倉に移り、関東大震災後は静岡へ移転。この際改修した自宅は貸家とし、1945年から約1年間は川端康成が借りていた。敗戦後は鎌倉に戻った。1947年自伝小説﹃夢は呼び交わす﹄を刊行して話題となり[1]、翌1948年、日本芸術院会員に選ばれる。1952年2月3日、急性肺炎のため鎌倉の自宅で死去した。77歳没。戒名は龍徳院宏文有明居士[2]。墓は港区元麻布・賢宗寺にある。
著作[編集]
●﹃草わかば﹄︵新聲社、1902年1月︶。オンデマンド版︵平凡社、2009年3月︶ ●﹃独絃哀歌﹄︵白鳩社、1903年5月︶。オンデマンド版︵平凡社、2009年3月︶ ●﹃春鳥集﹄︵本郷書院、1905年7月︶。オンデマンド版︵ゴマブックス、2016年︶ ●﹃有明集﹄︵易風社、1908年1月︶。﹃名著複刻全集 近代文学館﹄ほるぷ、1983年ほか ●﹃有明詩集﹄アルス、1922年。 Kindle版︵ディスカヴァー・トゥエンティワン︶ ●﹃有明詩抄﹄岩波文庫、1928年。新装復刊1994・2010年ほか ●﹃随筆 飛雲抄﹄書物展望社、1938年。復刻版﹃近代作家研究叢書﹄日本図書センター、1989年 ●﹃野ざらしの夢﹄生活社︿日本叢書﹀、1946年 ●﹃夢は呼び交す-黙子覚書﹄東京出版、1947年 ●﹃有明全詩抄﹄酣燈社︿詩人全書﹀、1950年 ●﹃蒲原有明全詩集﹄創元社︿創元選書﹀、1952年 ●﹃蒲原有明詩集﹄矢野峰人[3]編、新潮文庫、1952年 ●﹃蒲原有明詩集﹄野田宇太郎編、角川文庫、1953年 ●﹃定本 蒲原有明全詩集﹄刊行会編、河出書房、1957年 ●﹃蒲原有明詩集﹄思潮社現代詩文庫、1976年 ●﹃夢は呼び交す﹄竹盛天雄注・野田宇太郎解説、岩波文庫、1984年、新装復刊2000年 ●﹃近代浪漫派文庫15蒲原有明/薄田泣菫﹄新学社、2007年 ●﹃蒲原有明詩抄﹄郷原宏解説、未來社﹁転換期を読む﹂2021年関連文献[編集]
●渋沢孝輔﹃蒲原有明論 近代詩の宿命と遺産﹄中央公論社、1980年
●﹃蒲原有明日記 1945-1952﹄高梨章編・解題、公孫樹舎、2019年