詩人の死
詩の背景 [編集]
1837年1月27日、プーシキンは妻へ執拗に言い寄るジョルジュ・ダンテスを相手に決闘を行い、その時の傷で2日後に亡くなった。これを聞いたミハイル・レールモントフは、この﹃詩人の死﹄と題する詩を書いて、当時のロシア皇帝の取り巻きである貴族階級の横暴の犠牲になったことを嘆いた。その後2月7日に、レールモントフはさらに16行をこの詩に追記し、貴族階級をさらに糾弾するように取れる内容を書いた。このため、彼はカフカースへ送られた[1]。ちなみに、レールモントフ自身も4年後の1841年にカフカスで決闘を行い早世している。詩と日本語訳 [編集]
﹃詩人の死﹄は、20行、18行、18行、16行に分かれていて、全体で72行ある。いったん最初の56行が書かれた後、最後の16行が追加された。以下に出だしの4行と最後の16行の原詩を、日本語訳と共に記す[2] [3]。原詩(ロシア語) | 直訳(日本語、GFDL) |
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ロシア語: Погиб поэт! - невольник чести- |
詩人が死んだ! - 名誉の奴隷となって - |
... |
(中略) |
ロシア語: А вы, надменные потомки |
そして、君らよ、傲慢な子孫よ、
卑劣さで有名になった父親たちの、
奢れる足元で瓦礫を作り
運命の遊びで残った一族の!
君らよ、帝王の座の貪欲な取り巻きよ、
自由、天才、栄光の絞首人たちよ!
君らは法律の下で隠れていて、
静かにしている - 真実と正義の後ろで!
しかし正義は神から来るのだ、汚職の仲間たちよ!
恐ろしい裁判官が君らを待つ。
彼は黄金をたたいた時の音のように心が固く、
彼は君らの未来の思考や行動を知っている。
そこで君らはうそに転じるが無益だ‥
うそは君らにはもう通じることはない、
そして、君らの黒い血は洗い流すことはできない、
詩人の正義の血を!
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