金壁東
表示
金壁東 | |
---|---|
龍江省長時代(1935年) | |
プロフィール | |
出生: |
1896年11月5日 [1] |
死去: |
1941年1月31日[1] 中華民国 北京特別市 |
出身地: | 清 順天府[2] |
職業: | 政治家・軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 金 壁東 |
簡体字: | 金 壁东 |
拼音: | Jīn Bìdōng |
ラテン字: | Chin Pi-tung |
和名表記: | きん へきとう |
発音転記: | ジン ビードン |
金 壁東︵きん へきとう︶︵1896年11月5日︿光緒22年10月1日﹀ - 1941年︿康徳8年﹀1月31日︶は、中華民国・満洲国の政治家・軍人。清朝皇族、粛親王善耆︵シャンキ︶の第七子。母は第一側妃チェンギャ氏︵程佳氏︶。夫人は武毅謀勇公徳寿︵デシェウ︶の娘ウヤ氏︵烏雅氏︶。[3]川島芳子の異母兄。 本名‥愛新覚羅憲奎。別名‥金壁東[4]。
事績[編集]
14歳で陸軍貴冑学堂に入学し、19歳で旅順中学に入学した。1915年︵民国4年︶、父の名代としてモンゴルに入り、翌年の第二次満蒙独立運動に参加している。運動失敗後の1917年︵民国6年︶に日本へ留学して東京振武学校で学び、川島浪速にも師事した。1921年︵民国10年︶に帰国している[5]。 1924年︵民国13年︶の北京政変︵首都革命︶に際しては、馮玉祥と直談判して清室財産没収を何とか免れたとされ、またこの頃より﹁金壁東﹂を称したという。あわせて王公遺産整理弁公処を設立したが、張学良の易幟に伴い解散させられた。その後、北平で満蒙維持会を組織し、その会長を務めている。1930年︵民国19年︶1月、旅順に移り、翌年には大連で貿易会社の金東公司を設立した[6]。 1931年︵民国20年︶9月の満洲事変勃発に際しては、皇族出身の吉林軍閥煕洽と関東軍との連絡役となり、吉長鉄路局長兼吉敦鉄路局長、長春市政籌備処処長を務めた。10月、東北交通委員会副委員長に任命される。1932年︵大同元年︶3月の満洲国建国に際し、執政府内務処内務官・籌備弁事処督弁、吉林鉄道守備隊中将司令官などに任命された。1933年︵大同2年︶4月、新京特別市公署市長に任ぜられ、1935年︵康徳2年︶5月、竜江省長に転じた[7]。 1937年︵康徳4年︶7月1日付で退官し[8]、以後宮内府顧問官[7]、満洲映画協会理事長を歴任した。1939年︵康徳6年︶10月、病気静養中のところ満洲映画協会理事長職につき辞表を提出、後任に甘粕正彦が就いた[9]。1941年︵康徳8年︶1月31日、仮寓していた北京特別市にて病没。享年46︵満44歳︶。住居[編集]
大連星が浦に屋敷を構える。金壁東の屋敷は後に星海賓館のレストランとして使用され、ホテル側の説明には誤って恭親王府と記されていたが、現在はホテルとレストランは営業を停止している。︵なお、近所に恭親王溥偉の屋敷があったが既に取り壊されて存在しない︶。注[編集]
(一)^ ab﹃愛新覚羅宗譜﹄甲四冊より。なお﹃大満洲帝国名鑑﹄は1894年10月29日︵清光緒20年10月1日︶生まれとしている。同様に﹁金璧東氏︹ママ︺ 粛親王の第二子﹂﹃朝日新聞﹄昭和16年︵1941年︶2月2日及び﹁金璧東氏︹ママ︺﹂﹃読売新聞﹄昭和16年︵1941年︶2月2日では﹁享年四十八﹂と報じており、岡戸編︵1934︶、588頁でも﹁光緒二十年﹂生まれと記述している。徐主編︵2007︶、885頁は﹁1897年︵清光緒23年︶﹂とする。
(二)^ 徐主編︵2007︶、885頁は﹁吉林通化﹂の人としている。
(三)^ ﹃愛新覚羅宗譜﹄甲四冊。
(四)^ ﹁金璧東﹂と誤記されることもあるが、東方の防塁となる意でつけた字であるため壁東が正しい。
(五)^ 岡戸編︵1934︶、588頁。
(六)^ 岡戸編︵1934︶、588-589頁。
(七)^ ab徐主編︵2007︶、885頁。
(八)^ ﹁満洲国退官者﹂﹃東京朝日新聞﹄昭和12年︵1937年︶7月1日夕刊。
(九)^ ﹁満洲映画協会理事長﹂﹃東京朝日新聞﹄昭和14年︵1939年︶10月24日。
参考文献[編集]
●岡戸理七編﹃富源満洲国を正視して﹄海外雄飛社出版部、1934年。 ●﹃大満洲帝国名鑑﹄挙国社、1934年。 ●徐友春主編﹃民国人物大辞典 増訂版﹄河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。 ●劉寿林ほか編﹃民国職官年表﹄中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。 満州国
|
---|