アステカ
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アステカ︵Azteca、古典ナワトル語: Aztēcah︶とは1428年頃から1521年まで北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。自らをメシーカ︵古典ナワトル語: mēxihcah︶と称した。言語は古典ナワトル語︵ナワトル語︶。
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[編集] 歴史
[編集] 建国
伝説によればアステカ人はアストランの地を出発し、狩猟などを行いながらメキシコ中央高原をさまよっていた。やがてテツココ、アスカポツァルコ、クルワカン、シャルトカン、オトンパンなどの都市国家が存在するメキシコ盆地に辿りつき、テスココ湖湖畔に定住した。1325︵または1345︶年、石の上に生えたサボテンに鷲がとまっていることを見たメシカ族は、これを町を建設するべき場所を示すものとしてテスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。その後、一部が分裂して近くの島に姉妹都市・トラテロルコを建設したとされる。[1][2]
[編集] 繁栄
アステカはメキシコ盆地の最大勢力であるテパネカ族の国家アスカポツァルコに朝貢してその庇護を受けていたが、1375年アカマピチトリはアスカポツァルコ王国の許可を得て国王︵トラトアニ︶に即位し、世襲の王族となった。アカマピチトリはアスカポツァルコの属国として領土を拡張することで国力を増加させた。[3]
1418年、アスカポツァルコは強国のテスココに戦争をしかけて領土を奪ったが、1426年に君主のテソソモクが死亡する。1428年、イツコアトル率いるアステカはテスココと共闘してアスカポツァルコを倒し、トラコパンを加えてアステカ三国同盟を結成した。[3]これがいわゆる﹁アステカ帝国﹂である。
1440年、イツコアトルの後を継いでモクテスマ1世が即位する。モクテスマ1世は遠征を頻繁に行い、メキシコ湾岸の熱帯地方を占領・従属させて勢力を拡げた︵花戦争︶。征服した土地に対して貢ぎ物を要求したが統治はせず、自治を許していた。被征服地は度々反乱を起こしたが、武力で鎮圧された。[4]
1486年に即位したアウィツォトルの代でも拡張が行われ、太平洋沿岸の熱帯地方までを支配した。南東方向へも進出し、ソコヌスコまでを征服したが次第に前線が遠くなるにつれ兵站の問題が発生し、それ以上先へ進むことは出来なかった。[4]
1502年、モクテスマ2世が王位につくと南方の太平洋沿岸へ遠征を行い、ヨピ人などを服従させて新たな領土を獲得した。しかし、南端のトトテペク王国は抵抗を続けた[5]。1519年にエルナン・コルテス率いるスペイン人が到来した時点で、アステカの支配は約20万平方キロメートルに及び首都テノチティトランの人口は数十万人に達し[5]、当時、世界最大級の都市であった。中心部には神殿や宮殿が立ち並び市もたって大いに繁栄した。[1]
[編集] スペインのアステカ帝国征服
詳細は﹁スペインのアステカ帝国征服﹂を参照[編集] 一の葦
アステカにはテスカトリポカ神に追われた白い肌を持つケツァルコアトル神が﹃一の葦﹄の年︵西暦1519年にあたる︶に戻ってくる、という伝説が存在した。帰還したケツァルコアトルが古い世界を破壊して新しい世界を建設すると信じられていた。アステカ人が漠然と将来に不安を感じ始めていたころ、テノチティトランの上空に突然大きな火玉が現れ神殿の一部が焼け落ちてしまった。その後も次々と不吉な出来事が起こった。この伝説により、﹃一の葦﹄の年の2年前︵1517年︶から東沿岸に現れるようになったスペイン人は帰還したケツァルコアトル一行ではないかと受けとられ、アステカのスペイン人への対応を迷わせることになった。[編集] 滅亡
メソアメリカ付近に現れたスペイン人は、繁栄する先住民文化をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した。1519年2月、ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは無断で16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出帆した[6]。コルテスはタバスコ地方のマヤの先住民と戦闘を行い︵es:Batalla de Centla︶、その勝利の結果として贈られた女奴隷20人の中からマリンチェという先住民貴族の娘を通訳として用いた[7]。 サン・フアン・デ・ウルア島に上陸したコルテスは、アステカの使者からの接触を受けた。アステカは財宝を贈ってコルテスを撤退させようとしたが、コルテスはベラクルスを建設し、アステカの勢力下にあるセンポアランの町を味方に付けた。さらにスペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち、300人で内陸へと進軍した。[8]コルテスは途中の町の多くでは抵抗を受けなかったが、アステカと敵対していたトラスカラ王国とは戦闘になり、勝利した。トラスカラと和睦を結び、1000人のトラスカラ兵と共にメキシコ盆地へと進軍した。[9] 1519年11月18日、コルテス軍は首都テノチティトランへ到着し、モクテスマ2世は抵抗せずに歓待した。[10]コルテス達はモクテスマ2世の父の宮殿に入り6日間を過ごしたが、ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、クーデターを起こしてモクテスマ2世を支配下においた。[11] 1520年5月、ベラスケス総督はナルバエスにコルテス追討を命じ、ベラクルスに軍を派遣したため、コルテスは120人の守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。ナルバエスがセンポアラに駐留すると、コルテスは黄金を用いて兵を引き抜いて兵力を増やした。雨を利用した急襲でナルバエスを捕らえて勝利すると、投降者を編入した。[12] コルテスの不在中に、トシュカトルの大祭が執り行われた際、アルバラードが丸腰のメシーカ人を急襲するという暴挙に出た。コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出たモクテスマ2世はアステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう[13]︵これについては、スペイン人が殺害したとの異説もある︶。1520年6月30日メシーカ人の怒りは頂点に達し、コルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した。この出来事をスペイン人は﹁悲しき夜︵ノチェ・トリステ︶﹂と呼ぶ。王︵トラトアニ︶を失ったメシーカ人はクィトラワクを新王に擁立して、コルテス軍との対決姿勢を強めた。 1521年4月28日、トラスカラで軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に13隻のベルガンティン船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲した。1521年8月13日、コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼした。[14][編集] 植民地時代の人口減少
詳細は﹁:en:Population history of indigenous peoples of the Americas﹂を参照 その後スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都︵メキシコシティ︶を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染し(疫病は現地で発生したという説もある︶、そのため地域の人口が激減した。 その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民はあっという間に激減した。[15][編集] 社会構造
[編集] 階級社会
アステカでは多神教に基づいた神権政治が行われ、王︵トラトアニ︶は王家の中から選ばれた。これとは別に最高位の神官も存在した。貴族階層には、世襲貴族に加え、戦争などで功績をあげて平民から引き上げられた貴族が存在した。大多数の平民はマセワルであった。さらに商人︵ポチテカ︶は、特別な法や神殿を持つ特権集団を形成していた。最下級に戦争捕虜や負債などのために身売りした奴隷︵トラコトリ︶が存在した。奴隷は自由身分に解放されることもあったが個人の所有物として相続の対象とされた[1]。[編集] 軍国主義
アステカは軍国主義の色彩の強い国家であった。この性格は終末古典期以降のメソアメリカの諸国家に特徴的であり、アステカはテオティワカン衰退後の終末古典期から後古典期の中でとりわけ強大な国家であった。ジャガーの戦士や鷲の戦士を中核とする強力な軍隊が征服戦争をくり返し諸国民に恐れられ、服属する国家から朝貢を受ける見返りに自治を与えて人民を間接統治した。諸国を旅する商人は時に偵察部隊としての役割も果たし、敵情視察や反乱情報の収集に従事した。[編集] 道路網整備と経済の発達
アステカは軍隊の迅速な移動を可能にするため道路網を整備していた。この道路網を通じて諸地域の産物がアステカに集まりその繁栄を支えた。テノチティトランの中心部では毎日市場が開かれたという。基本的な商業活動は物々交換であったが、カカオ豆が貨幣として流通し、カカオ豆3粒で七面鳥の卵1個、カカオ豆30粒で小型のウサギ1匹、カカオ豆500〜700粒で奴隷1人と交換できた。
[編集] 食料
高い生産性を誇るチナンパ農業から得られるとうもろこしや芋類・豆類などの農産物、リュウゼツランから醸造されるプルケ酒やタバコなどの嗜好品、専門の職人によって製作された質の高い陶製品やさまざまな日用品が、市場で売買されていた。 アステカ料理を参照[編集] 文化
アステカ文明は、先に興ったオルメカ・テオティワカン・マヤ・トルテカ文明を継承し、土木・建築・製陶・工芸に優れていた。精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧な暦を持っていた。[編集] 人身御供
アステカ社会を語る上で特筆すべきことは人身御供の神事である。人身御供は世界各地で普遍的に存在した儀式であるが、アステカのそれは他と比べて特異であった。メソアメリカでは太陽は消滅するという終末信仰が普及していて、人間の新鮮な心臓を神に奉げることで太陽の消滅を先延ばしすることが可能になると信じられていた。そのため人々は日常的に人身御供を行い生贄になった者の心臓を神に捧げた。また人々は神々に雨乞いや豊穣を祈願する際にも、人身御供の神事を行った。アステカは多くの生贄を必要としたので、生贄を確保するために戦争することもあった。
ウィツィロポチトリに捧げられた生贄は、祭壇に据えられた石のテーブルの上に仰向けにされ、神官達が四肢を抑えて黒曜石のナイフで生きたまま胸部を切り裂き、手づかみで動いている心臓を摘出した。シペ・トテックに捧げられた生贄は、神官達が生きたまま生贄から生皮を剥ぎ取り、数週間纏って踊り狂った。人身御供の神事は目的に応じて様々な形態があり、生贄を火中に放り込む事もあった。
現代人から見れば残酷極まりない儀式であったが、生贄にされることは本人にとって名誉なことでもあった。通常、戦争捕虜や買い取られた奴隷の中から、見た目が高潔で健康な者が生贄に選ばれ、人身御供の神事の日まで丁重に扱われた。神事によっては貴人や若者さらには幼い小児が生贄にされることもあった。
[編集] メシーカ歴代君主
- 1375年: アカマピチトリ
- 1395年: ウィツィリウィトル
- 1417年: チマルポポカ
- 1427年: イツコアトル
- 1440年: モテウクソマ・イルウィカミナ(モクテスマ1世)
- 1469年: アシャヤカトル
- 1481年: ティソク
- 1486年: アウィツォトル
- 1502年: モテウクソマ・ショコヨトル(モクテスマ2世)
- 1520年: クィトラワク
- 1521年: クアウテモック
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
●増田義郎・山田睦男 ﹃ラテン・アメリカ史1﹄ 山川出版社、1999年。ISBN 4-634-41550-X。 ●セルジュ・グリュジンスキ ﹃アステカ王国 : 文明の死と再生﹄ 創元社、1992年。ISBN 4-422-21069-6。 ●山瀬暢士 ﹃アステカ文明﹄ 太陽書房、2002年。ISBN 4-901351-18-4。 ●増田義郎 ﹃アステカとインカ 黄金帝国の滅亡﹄ 小学館、2002年。ISBN 4-09-626063-0。[編集] 関連項目
●アステカ神話 ●マカナ ●太陽の石 ●アポカリプト[編集] 外部リンク
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