もうこの話をするのにも飽き飽きしている。﹁桜を見る会﹂についての話である。 どうして﹁飽き飽き﹂しているかというと、ふつうの人間の受忍限度を超えて、この話が続いているからである。 続く理由は簡単で、ふつうは申し開きのできない証拠をつきつけられて﹁申し訳ありませんでした。私がやりました﹂として﹁犯人﹂が白状して、火曜サスペンス劇場が終わるところで、ぜんぜんドラマが終わらないからである。 でも、﹁私がやりました﹂と言わないというのは、ある意味では﹁合理的な﹂ふるまいなのである。 昔、東京地検に勤めていた友人から、推理ドラマはあれは嘘っぱちだという話を聴いたことがある。検察官に供述の矛盾を衝かれて、顔面蒼白となって、﹁もはやこれまで﹂と自白するのは﹁自分が知性的な人間である﹂ということにおのれの存在根拠を置いている人間だけだというのである。 ﹁そんな人間は実はめったにいないんだよ。そんなのはね、