新田義貞伝承を追う!シリーズ8回目は﹁児島高徳その1﹂です。 このシリーズは、勾当内侍の墓、新田義貞の墓、首塚、ときて、天海、明智秀満と続き、今回が児島高徳。 これらバラバラのものが、最後には収束してある一つの結論に達することを目的に書き続けています。今まさにそこに向かって驀進中であります。(その割には更新ペースが遅いですが……) 今はその途中です。 では、まず国史大辞典から﹁児島高徳﹂を引いてみます。 児島高徳 (こじまたかのり)生没年不詳。南北朝時代の武将。備前の人。備後三郎と称し、備後守範長の子。元弘元年(1331年)後醍醐天皇が北条氏討伐の軍をおこして笠置山に行幸し、諸国の兵を募ったとき、直ちにこれに応じて備前に挙兵した。しかし間もなく笠置を陥り、翌二年三月天皇は隠岐に遷されると聞いて、高徳は一族らの兵を率いて播磨・備前境の船坂山、さらに播磨・美作境の杉坂に、遷幸の途次を要して、車