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慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。 「夏目漱石」
底本には、以下の諸篇がおさめられています。 「01 訳者のことば」(新字新仮名) 神吉三郎 「02 森の生活――ウォールデン――」(新字新仮名) ヘンリー・デイビッド・ソロー なお、「02 森の生活――ウォールデン――」には底本どおり「01 訳者のことば」を納めています。 ※公開に至っていない場合は、リンクが機能しません。
第一章 歴史の概念「哲學年誌」岩波書店、1931(昭和6)年12月 第二章 存在の歴史性「思想 第一一五号」岩波書店、1931(昭和6)年12月 第三章 歴史的發展〜第六章 歴史的認識「歴史哲學」續哲學叢書、岩波書店、1932(昭和7)年4月
世界はそれぞれの時代にそれぞれの課題を有し、その解決を求めて、時代から時代へと動いて行く。ヨウロッパで云えば、十八世紀は個人的自覚の時代、所謂個人主義自由主義の時代であった。十八世紀に於ては、未だ一つの歴史的世界に於ての国家と国家との対立と云うまでに至らなかったのである。大まかに云えば、イギリスが海を支配し、フランスが陸を支配したとも云い得るであろう。然るに十九世紀に入っては、ヨーロッパという一つの歴史的世界に於てドイツとフランスとが対立したが、更に進んで窮極する所、全世界的空間に於て、ドイツとイギリスとの二大勢力が対立するに至った。これが第一次世界大戦の原因である。十九世紀は国家的自覚の時代、所謂帝国主義の時代であった。各国家が何処までも他を従えることによって、自己自身を強大にすることが歴史的使命と考えた。そこには未だ国家の世界史的使命の自覚というものに至らなかった。国家に世界史的使命の
下ビルマのモールメンにいた頃、私は大勢の人たちから憎まれていた――生涯でただ一度、憎悪に足るだけの要職に就くことになったわけだ。町の分署の警官だった私に、無目的で狭量な反欧州的感情はひどく辛かった。彼らに暴動を起こすまでの根性はなかったが、ヨーロッパ人女性が一人でバザールを通りがかろうものなら、たぶんドレスに蒟醤(*1)を噛んだ唾を吐きかけられることになっただろう。警官たる私は明白なターゲットで、やっても大丈夫そうな場合はいつでも苛められていた。はしっこいビルマ人がサッカー場で私を蹴躓かせ、審判(これもまたビルマ人)があらぬ方を見ていた時、群衆は胸糞悪い哄笑でこれを歓迎した。それが一度きりではなかったのだ。私の後を難の及ばぬ距離だけ離れて侮蔑のヤジが付きまとい、そこいら中にいる若者連の黄色い嘲り顔がいたく神経に障るようになった。中でも最悪だったのが仏教の若い僧たちだ。町にはそんなのが何千人
「改造 新年号 第十八巻第一号」1936(昭和11)年1月1日 「改造 七月特大号 第十八巻第七号」1936(昭和11)年7月1日
畏友Y兄から、いつか面白い言葉をきいたことがある。それは「日本人はどうも抗議(プロテスト)する義務を知らないから困る」というのである。 これはなかなか味のある言葉で、何か不正なことがあった場合に、それに抗議を申し込むのは、権利ではなくて義務だというのである。 例えば、電車に乗る場合に、乗客が長い列を作って待っている。やっと電車が来て、乗客が順々に乗り込む。その時脇からうまくその列に割り込んで、電車に乗ってしまう人がよくある。そういう時に、特に婦人の場合などには、自分の前に脇から一人くらい割り込んで来ても、一寸いやな顔をするくらいで、そのまま黙ってその人について乗ってしまうことがよくある。 この場合、その人はもちろん「横から割り込んではいけません」と抗議を言うべきなのである。それを、ずるずるに黙許してしまうことは、一つの道徳的な罪悪であることを、よく承知すべきである。一人くらいのことに、無闇
海岸の小さな町の駅に下りて、彼は、しばらくはものめずらしげにあたりを眺めていた。駅前の風景はすっかり変っていた。アーケードのついた明るいマーケットふうの通りができ、その道路も、固く鋪装(ほそう)されてしまっている。はだしのまま、砂利(じゃり)の多いこの道を駈(か)けて通学させられた小学生の頃(ころ)の自分を、急になまなましく彼は思い出した。あれは、戦争の末期だった。彼はいわゆる疎開児童として、この町にまる三カ月ほど住んでいたのだった。――あれ以来、おれは一度もこの町をたずねたことがない。その自分が、いまは大学を出、就職をし、一人前の出張がえりのサラリーマンの一人として、この町に来ている……。 東京には、明日までに帰ればよかった。二、三時間は充分にぶらぶらできる時間がある。彼は駅の売店で煙草(たばこ)を買い、それに火を点(つ)けると、ゆっくりと歩きだした。 夏の真昼だった。小さな町の家並みは
コレラの伝染様式について ON THE MODE OF COMMUNICATION OF CHOLERA (1854) ジョン・スノウ John Snow 水上茂樹訳 この本の第1版は1849年の8月に出版されたものであるが、薄いパンフレットに過ぎないものであった。その時から後で、私はこの主題について種々の論文を書き医学会で話したり医学雑誌に刊行した。この版はこれらのすべての論文の内容だけでなく新事実を含んでおり、これらの大部分は私の最近の調査の結果である。 この調査のために戸籍本署長官がいろいろと便宜をはかってくださったことにたいして、私はこの機会にあたり感謝を捧げる。 今回の研究にたいしても、コレラの原因を確かめるために私が行った過去の努力に与えてくださったのと同じような親切な配慮を、医学界の皆様が私に与えてくださるであろうことを確信している。 アジア型コレラの存在は1769年以前には
社会思想研究会出版部のすすめによって、私の随筆の中から、探偵小説のトリックを解説したものを集めてみた。トリックについては、私は別に「類別トリック集成」(早川書房版『続幻影城』に収む)というものを書いているが、これは探偵小説に慣れた人々のための項目書きのようなもので、一般の読み物としては不適当なので、本書にはその目次のみを参考として巻末に加え、内容全部はのせなかった。のちに、その「トリック集成」の部分部分を、もっとわかりやすい書き方にした随筆が幾つかあるので、ここにはそれらを集め、ほかに類縁の「魔術と探偵小説」「スリルの説」などを加え、さらに本書のために新らしく「密室トリック」三十五枚を書き下して、首尾をととのえた。 「類別トリック集成」は八百余の各種トリックを九つの大項目にわけて解説したものだが、それらの項目と本書の随筆との関係を左にしるして御参考に供する。これには巻末の「類別トリック集成
昔の人は地下に住んでいる大鯰が体を動かすと地震が起こると考えていた。安政二年の江戸大地震の後に出版された錦画には鯰の画が沢山かいてある。「昔の人」と言ったが、地震を鯰のしわざと考えるようになったのは、昔は昔でも大昔ではなさそうである。 静岡県加茂郡松崎のある寺で唐紙を張りかえた時、下張(したばり)に使われていた古い暦が発見された。この暦は建久年間(西暦一一九〇―一一九八)のものだったが、それに「地震の虫」という奇怪な動物が印刷されてあると言う。私はこの画をみたことはない。しかしジョン・ミルンの書いた本に、「大きな地中に住む蜘蛛、すなわち地震虫」と記してあるところから推測すると、多分江戸時代の書物にのっている、得体の知れぬ怪物が日本全国を背負っている画と同じものであろう。これによると鎌倉時代には地震を鯰のしわざと考えていなかったことが分かる。 茨城県鹿島(かしま)神社の境内に要石(かなめいし
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