ブックマーク / dain.cocolog-nifty.com (8)
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例えばソフトウェア開発において、 人が増えても納期が短くなるとは限らない 見積もりを求めるほどに絶望感が増す 納期をゴリ押すと、後から品質はリカバリできない これを見て、﹁だよねー﹂﹁あるあるw﹂という人は、本書を読む必要はない。 プログラミングは人海戦術で何とかならないし、﹁厳密に見積もれ﹂というプレッシャーは見積額を底上げするし、納期が優先されて切り捨てられた品質は、技術的負債として残り続ける。経験豊富なエンジニアなら、大なり小なり、酷い目に遭ってきただろうから。 だが、これらを理解できない人がいる。 要員を追加して、手分けしてやれば一気に片付くはず 厳密にやれば、見積りバッファーはゼロにできる 品質のことはリリース後にじっくりやればいい ……などと本気で考えている。これは、ソフトウェア開発とはどういうものか、特性を知らないからだ。こんな無知な人間が経営層にいたり、顧客の代表となった場
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夢中にさせて寝かせてくれず、ドキドキハラハラ手に汗握らせ、呼吸を忘れるほど爆笑させ、ページを繰るのが怖いほど緊張感MAXにさせ、食いしばった歯から血の味がするぐらい怒りを煽り、思い出すたびに胸が詰まり涙を流させ、叫びながらガッツポーズのために立ち上がるほどスカッとさせ、驚きのあまり手から本が転げ落ちるような傑作がこれだ。 この世でいちばん面白い小説は﹃モンテ・クリスト伯﹄で確定だが、この世でいちばん面白いファンタジーは﹃氷と炎の歌﹄になる。 書いた人は、ジョージ・R・R・マーティン。稀代のSF作家であり、売れっ子のテレビプロデューサー&脚本家であり、名作アンソロジーを編む優れた編集者でもある。 短篇・長編ともに、恐ろしくリーダビリティが高く、主な文学賞だけでも、世界幻想文学大賞︵1989︶、ヒューゴー賞︵1975、1980︶、ネビュラ賞︵1980、1986︶、ローカス賞︵1976、1978
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問‥おっぱいは誰のものか? 答‥それを持つ本人のもの2行で終わるはずなのだが、﹃乳房論﹄を読むと、こんな単純なものではないようだ。この答えに至るまでに様々な紆余曲折があり、今でも続いていることが分かる。 本書は、人類史を振り返り、西洋を中心とした乳房をめぐる欲望の歴史をたどっている。乳房に対する概念は一様ではなく、それを求める人や時代や文化によって尊ばれ・蔑まれ・弄ばれてきたという。 著者はマリリン・ヤーロム、スタンフォード大学のジェンダー研究所の上級研究員である。 彼女は、乳房に対する視線、すなわち乳房がどのように見せられ、見られてきたかという観点から振り返る。絵画や彫刻、映画やポスターに現れる、ビジュアルとしての乳房だけでなく、詩歌や論文、プロパガンダに現れるレトリックとしての乳房にも着目する。さらに、乳房がその時代や文化圏でどんな役割を果たしたかという機能面にまで掘り下げている。
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古代ギリシアの女学校を舞台に、女の子の友情と成長を描いた百合マンガ―――という噂で手にしたが、控え目に言って最高だ。 詩人になることを夢みるエーリンナと、親友のバウキス。当代一の女詩人サッポーの女学校に入ることになる。乙女のたしなみや花嫁修業そっちのけで、歌や竪琴に夢中になる。 女性の自由が制限されていた時代で、それでも歌への熱い情熱を胸に、元気いっぱいのエーリンナに思わず微笑む。さらにツンデレ気味のバウキスとの友情が尊い。ふたりの関係は、これが象徴的だ。先輩の結婚式を見送って落ち込んでいるバウキスに、エーリンナは言う。 ﹁29話 とこしえの思い出﹂より Copyright © Star Seas Company All Rights Reserved 当時の結婚適齢期は15才、それまで女学校にいるわずかな時間のことを、自由時間︵スコレー︶と呼んでいる︵後の﹁スクール﹂である︶。エーリンナ
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人が世界をどのように知覚しているかについて、仮説を持っている。 それは、﹁人は世界を"パターン"で捉えている﹂だ。見ている像、聞こえている音がそのまま脳で処理されているわけではない。有限の神経系、感覚器官で対応するため、世界は人相応にパターン化される。珍しい仮説ではないが、このパターン化は自分自身に最適化されているところがミソ。世界は知覚する段階で既に再解釈され、歪み、わたし向けにカスタマイズされているのだ。 たとえば、ある部分を見る/聞く/理解するetc…とき、知覚外の部分や隠れている箇所を、あたかも連続しているかのように補完しようとする。自然界では、対象を完全に捉えることはまれだろう。一部が遮られたりノイズが入るのが普通だ。人は、記憶や経験によって、その隠れた部分を補い、連続したものとして扱おうとする。そして、先天的なパターン回路を、文化的にカスタマイズされたパターンを獲得するのが、発
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読んだら覚醒した。料理が好きに自由になるスゴ本。 たとえばオレンジページの﹁絶品ベスト20レシピ﹂があるとしよう。すると、その20品しか作れない。20だって凄いのだが、いかんせん替えが利かない。食材や調味料が欠けると作れない。つまり、わたしにとって料理とは、﹁レシピ通りに切ったり火を通すプロセス﹂に過ぎなかった。 それだけでない。実は、本書に出会う前に、衝撃的な料理を食べた。 一つは﹁大根のコンソメ煮﹂もう一つは、﹁白菜サラダ﹂だ。﹁大根のコンソメ煮﹂は、面取りした大根をコンソメスープでひたすらぐつぐつ煮込んだやつ。﹁白菜サラダ﹂は適当に切った白菜にドレッシングをかけたやつ。 なんだぁフツーと言うなかれ。わたしがガツンとやられたのは、﹁大根は出汁+醤油か味噌で﹂﹁白菜は鍋物﹂しかなかったから。大根とは根菜だから人参や玉葱と一緒だから、コンソメ煮も美味しい。白菜とは葉物だからサラダになる←そ
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人類史ならぬ麺類史、読むと無性にラーメンが食べたくなる。 小麦や米、稗など穀物の栽培の歴史をはじめ、穀類を挽く道具の発明や製造手法の開発史を追い、さらには﹁粉﹂の流通路を制する覇権争いを眺める。いっぽうカメラを引いて、衛星の視点から、﹁麺﹂がシルクロードに沿ってユーラシア大陸を行き来した構図を見る。身近なのに壮大な、麺の歴史。 いちばん面白かった視点は、蕎麦とパスタ。シルクロードを軸として、日本の蕎麦とイタリアのパスタは、驚くほど相似形だ。どちらも当初は、貴族が食べるぜいたく品だったが、時とともに階級を移動して、一般的な食べ物となったという。時代も同じで、江戸の庶民に蕎麦が広まったのは、ナポリにパスタの屋台が出回ったのと同じなんだって。 新興都市・江戸も、国際都市・ナポリも、当時は職を求めて流入してきた労働者にあふれていた。そして、地方で作られた穀類を都市で消費する﹁街の食べ物﹂となるべく
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ずっと不思議だった疑問、﹁なぜこの曲に心が震えるのか﹂。 その謎が、ようやく解けて感動してる。しかも、分かったからといって、その曲への愛着が薄れるどころか、いっそう︵狂おしいほど︶増している。音楽について新しい耳をもたらしてくれる、嬉しいスゴ本。 音楽は音から成り、音とは振動のこと。振動が音になるしくみは糸電話で子どもに説明できる。だが、音楽の音と、雑音の音の違いは何か、いつ音は音楽になるのか、そして、なぜ音楽を聴くと心が揺さぶられるのか……音楽家でもあり物理学者でもある著者は、科学的に解き明かす。同時に、音楽を﹁芸術﹂という枠に押し込めていた思い込みを砕いてくれる。音楽は物理学を基盤とした工学であり、論理学に則った芸術なのだ。 まず、本書でいちばん嬉しかった部分―――﹁なぜこの曲に震えるのか﹂を振り返る。音楽が感情を揺さぶるのは、転調に秘密があるという。音階が上がっていくにつれ、その調の
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