ブックマーク / delete-all.hatenablog.com (12)
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パソコンを開いて仕事マシーンになっていた僕の隣席に客がやってきた。画面から目を離す。大人3人。80代の夫婦と思われる男女(男性は杖をついている)と僕より年上、見たところ50代後半の息子と思われる男性。黄色いジャンパーがカッコいいぜ。平日の夕方。大きな駐車場のある郊外のコメダ珈琲。﹁自営業の息子が足の不自由な両親を車に乗せて連れてきたのだろう﹂と勝手に、今の日本ではめずらしくない情景を推測して、僕は仕事マシーンに戻った。 つまらないエクセルファイルの彼方から聞こえてくる彼らの会話に違和感を覚えるのにそれほど時間は要らなかった。会話が子供を相手にしているような内容なのだ。うるせー。仕事してんだよ。つか子供いたか?違和感の正体を突き止めようとアクビをする真似をしてチラ見する。子供はいない。お父さんが痴呆で子供に戻りつつあるのかな、いい息子さんで良かったね、と結論付けるがどうもおかしい。どう聞いて
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﹁自分が取ってきた契約や仕事にいつどこまで関わればいいのか﹂は、営業職の永遠のテーマだ︵どこまでが自分の仕事の範疇になるのか問題は、他の職種でも同じだと思う︶。20年超の営業ライフで、何人かの先輩が、自身で開発した仕事にいつまでも携わろうとして、上役から注意される姿を見てきた。彼らは﹁自分の仕事だから﹂と異口同音に言っていた。それが原因で退職する人もいた。 僕にもまだ、そういう﹁自分の仕事﹂という意識はあるけれども、今は仕事を振ってからは結果を報告として受け取るだけで、それが﹁営業の仕事﹂だと割り切っている。だから﹁自分で新規開発し、案件になるまで育てて、成約した仕事の行く末を見るのが悪いことですか?﹂と部下に言われると返答に窮してしまう。正しいからだ。﹁営業の仕事は次の新たな仕事を取ってくること。取ってきた仕事にいつまでも関わって新規開発に割く時間と労力が削がれるなら本末転倒だ﹂と言いな
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﹁ひとつの出会いが、ギブアップ寸前だった僕を﹃戦える営業マン﹄へ変えてくれました。﹂の姉妹編です︵http://delete-all.hatenablog.com/entry/2019/06/23/190000︶ ﹁部長は同業他社の悪口を一切言いませんね﹂﹁他社を褒めまくりじゃないすか﹂と同僚や部下から驚かれる。そういうときは﹁他社の悪口は時間がもったいないから﹂つって誤魔化している。かぎられた時間を他社の悪口に割くくらいなら他の話をしたほうが良くね?という考え方である。僕はポジティブなバイブスに身を委ねて仕事をしたいのだ。 今の職場にやってきて丸2年になるけれども、多かれ少なかれ他社の悪口をいう営業マンはいる。個々の細かいやり方に干渉するつもりはない。ただでさえ営業という面白くない仕事︵僕はそう思っている︶で、悪口や非難といったネガティブなことを言い続けていたら、ますます仕事が面白くなく
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もしあの出会いがなかったら、運が悪かったら、これまで20年以上も、営業という仕事をやってこられなかったと思う。新卒で入った会社で営業部に配属してからの半年ほど、まったく結果が出なかったので、継続的に結果を出せるとはとても想像できなかったのだ。当時はインターネットで情報を集められなかったし、今のように営業スキルを教えてくれるような書籍もなかった︵有名経営者の立志伝はあった︶。会社の上司や先輩からは、足で稼げ、名刺を配れ、見込み客を増やせるだけ増やせ、と言われただけ。具体的に何をすればいいのか教えられなかった。新人もライバルの1人と見る風土があった。 当時、顔を出していたスナックで、時々見かける初老の男性がいた。彼はいつも一人で静かに飲んでいた。ママからは保険の営業マンだと教えられた。何十年もその道の新規開発営業でやってきた人だと。その頃の僕は、まったく結果が出せずに自信を喪っていた。仲の良か
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﹁仕事を断ること﹂も、営業の仕事である。断る理由はいろいろある。今、僕の勤めている会社では、﹁商談を進めている相手に、社会的によろしくない団体との付き合いが確認された﹂とか、﹁商談相手が倒産寸前の財務状況であった﹂という論外をのぞけば、﹁社が望む売上や利益が見込めないから﹂というものがほとんどである。そのほかにも、事業展開エリア外、とか、理念や方針が合わないから、とか、相手の顔が生理的に無理、という理由があるかもしれない。 断ることは、営業職の仕事の中で、最も難しいもののひとつでもある。なぜ難しいのか。汗水たらして見つけ育ててきた仕事を断るのは、そこまでかけた時間や手間はともかく、築き上げた信頼関係が壊しかねない。裏切った、申し訳ない、スマンと思う。ひとことでいえば、罪悪感を覚えるからだ。 ある案件の話。担当者ともツー・カーの仲になり、商談を進めていくうちに、想定している売上・利益が見込め
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コンビニチェーンのファミリーマート︵ファミマ︶がこども食堂運営に乗り出すらしい。﹁ファミマこども食堂﹂を全国で展開 |ニュースリリース|ファミリーマート﹁大企業﹂﹁全国2000店舗﹂というスケール感は従来のボランティアに支えられたこども食堂にはなかったものだ。この件について、僕は﹁スゴイ!物好きだなー!﹂というポジティブな第一印象を持ったのだけど、世の中は賛否両論みたいだ。賛否はそれぞれの考えや立場からのものだから別にいいのだけれども、﹁大企業﹂﹁営利﹂﹁こども食堂の運営きっつー﹂というぼんやりしたイメージで意見をいっている人が多いように見えた。ひどいものになると助成金目当てではないかという声も見かけた。企業ガー!ボランティアガー!理念ガー!意見をぶつけあうのは大変時間と精神に余裕があって結構だが、その議論が、こども食堂運営にかかる数字を把握しないでなされているものであったら意味がないので
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今年の4月、﹁新しい風を入れてくれ﹂とボスに言われ入社8ヵ月で食品会社の営業部長になった。ホワイトな環境下で、健全で平均以上の能力をもった同僚と、気分よく仕事が出来ている。だが、大卒後ずっとブラック環境で働き続けてきた僕には、彼らの﹁仕事嬉しい!楽しい!大好き!﹂なスタンスは長所でもあるが弱点にもなりかねないように見えてならなかった。それならば、ブラック環境を生き抜いた経験を活かして彼らの力を最大限に発揮できる組織に変えてみようと考えた…とは社内的な建前で、本音は、出来るだけ楽に仕事をしたいだけである。仕事ってそういうものだ。 部長になった前後に書いた記事。 労働条件の改善︵固定残業代について/時短勤務の導入︶ 労働条件を改善するためにやったこと全部話す。 - Everything you've ever Dreamed 方針の策定︵﹃営業に携わる時間をつくり小さい目標をチームでクリアして
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拙タイムラインが﹁大学辞めろ﹂というツイートとその関連で大変盛り上がっていた。他人が大学を出ようが辞めようがどうでもいいし、﹁大学は出た方がいいよ!﹂﹁そんなことを言うのは無責任だ﹂というつもりもない。実際、大学を出ていなくても立派に生きている人もいるからだ。ただ、僕の経験から言わせていただくと、世の中には大学を出ている出ていないを気にする人間が相当数いるのもこれまた事実だ。昨年、僕は無職状態からの転職活動をしていたのだが、その際、すでに40代も半ばになっている僕の学歴について質問をしてきた企業は実際に何社かあったからだ。﹁一流大学出身なのに働いていないのですか﹂﹁ちょwww法学部卒で駐車場の切符切りですか…ぷぷぷ﹂誇張していえばそんな言われ方もされた。きっつー。まあ仕方ないよね。事実だから。大学、法学部を出たことが今の僕の仕事︵営業部長職︶に役だっているかといわれたら、ほとんどゼロだ。営
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いつぞやの名刺交換会で名刺を交換した経営コンサルタントの人が、絶対に御社の役に立ちますから、時間を無駄にしませんから、一時間だけ、一度だけ、一度だけ、と下手くそなナンパみたいなラブコールを送ってくるものだから、先っちょくらいなら時間の無駄にならないかと思って面談した。ヤメときゃよかった。ま、そのときは相談に乗ってもらいたいこともないわけではなかった。新規事業の事業計画でちょっと悩んでいたからだ。その新規事業は、︽新規事業アイデアを出せ︾というボスから幹部クラスへの課題に対して僕が便秘気味の脳からひねりだしたものである。採用されても面倒くさいし︵余裕がない︶、手抜きなものを出したら失脚しかねない、という極めて厳しい条件下で、実現性は僅かながらあるがアホらしいので正気の会社ならやらないであろう、ふざけた事業アイデアを出したつもりだったが、なぜかボスの琴線に触れてしまい、﹁面白いから進めてくれ﹂
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昨年末に怨恨退職をした会社が僕が在籍していたときよりも酷い状況に陥っているらしい。元同僚たちも悲惨な目に遭っているようだ。僕に力を貸してくれなかった方々が滅びようとも知ったことではない。笑いをこらえるのに必死、ザマーミロな気分だ。だが、そのような悪態ばかりついていると地獄に堕ちてしまうので良い行いをしてバランスを取りたい。具体的には皆様のために僕が目撃してきたヤバい会社の兆候を列挙する。ひとつでも該当する項目があったら荷物をまとめてもらいたい。さもないと僕みたいに手遅れになるよ。 ・ワンマン経営をしていた社長が苦しくなった途端に﹁社員一人一人が経営者﹂と言い出す。 ・本社若手社員の早期離職率が劇的に改善。→若手社員が全員退職したため ・﹁労働組合﹂という法で認められた存在について誰も口にしようとしない。→恐怖政治 ・流行りのランチミーティングを突然導入。 ・ランチミーティングがクチャラーミ
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北鎌倉にあるお寺へ墓参りに行った。妻と母と一緒に。父が死んで二十年。前日の台風が残していった風にあおられて線香に火をつけるのに苦戦しながら、この煙で燻され、ゾンビ化した父が墓から這い出てきたら…というどうでもいいことに想像力を浪費していると、家族連れだろうか、イーチ、ニー、サーンとどこからか子供たちの声。その声は僕に父との風呂を思い出させた。 父は僕と弟を湯船につからせるとゆっくり百まで数えさせた。父の風呂は本当に、本当にあつかった。僕らは大人の熱さに、数えるのを速めたり、数字を飛ばしたり、胸までお湯から出したりして対抗した。そのあとには恐怖の﹁10やりなおし﹂がいつも飛んできて、僕らが湯船から出るときには百をゆうに越える数を数えさせられていてゆでダコのように赤くなっていた。二匹のゆでダコの指先はふやけてしまっていて僕ははやく大人になって一人で風呂にはいる権利がほしいとそのふにゃふにゃの指
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三つ子の魂百までというが小学生のころ僕のまわりで噂されていた﹁死んだ人間は火葬されるときにショックで棺桶のなかで生き返るが気付かれずに焼かれてしまう﹂という話は、当時近所に住んでいた背の高い女の子が突然病気で亡くなってしまった事実によって補強・増幅され、考察や検証もされずに僕のなかでほとんど恐怖そのもののようになっている。自分の声が届かない、意思が届かない、暗黒の恐怖だ。今日、祖父に延命措置をとるかどうか訊いたとき、そんな恐怖に関する古いエピソードを思い出した。 祖父は年末に体調を崩して入院していたのだけれど、今日は点滴が外れ、ものが食べられるほどに回復した。とはいえ心不全と肝不全を起こしている明治生まれの祖父の身体が過酷な手術に耐えられるわけもなく僕や親族はこのままゆっくりと弱っていく様子をみていくしかない。それが突きつけられている現実だ。ものが食べられるようになった勢いそのままに僕を相
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