ブックマーク / dain.cocolog-nifty.com (14)
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﹁あとで読む﹂と思った本が、後で読まれた試しがない。 今度の週末・連休にと、積まれた本は崩されない。次の盆休み・年末年始に繰り越され、山脈を成し床が消える。 読書を食事になぞらえて、﹁血肉化﹂と表現するならば、私がやっていることは、メニューを眺めて片っ端から注文しているくせに、いんすた映えを気にしながら撮るくせに、まともに咀嚼して嚥下して消化してない状態だ。 そのくせ、﹁積読も読書のうち﹂と開き直ったり、溜まった本こそ私の証などと屁理屈こね回す。読まない本に﹁負債﹂のような後ろめたさを感じつつ、新刊本を探しだす。新しい本はそれだけで価値があると盲信し、かくして積読リストは延びてゆく。 もう一つ、恐ろしい予感がある。感受性の劣化だ。 あれほど楽しみに﹁取っておいた﹂本が、まるで面白くなくなっている。いや、その本の﹁面白さ﹂が何であるかは理解できる。だが、それを面白いと感じなくなっているのだ。
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﹁謝ったら死ぬ病﹂をご存知だろうか? どんなに証拠を突き付けても、絶対に非を認めない人だ。 プライドの高さや負けず嫌いといった性格的なものよりもむしろ、過ちを認めることが、自分の命にかかわるものだと頑なに信じている。すなわち、﹁謝ったら死ぬ﹂という病︵やまい︶に取り憑かれている―――そんな人がいる。 もちろん、想像力が衰えて視野が狭く、無知な自分を認めたがらないような頑固者なら、可哀そうに思えども理解はできる。 だが、第一線で活躍する知識人や学者で、ものごとを客観視できるはずなのに、この病気に罹っている人がいる。それどころか、その優れた知性を用いてコジツケを考えだし、論理を捻じ曲げ、のらりくらりと言い逃れる。 なぜ、あの人は、あやまちを認めないのか? ずばりこのタイトルの本書を読んだら、疑問が氷解した。 それと同時に、﹁謝ったら死ぬ病﹂は私も罹患していることが分かった。﹁あの人﹂ほどは酷く
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うんこを限界までガマンしたことがある人たちと、限界を突破した悲しみを知る全ての人たちに贈るアンソロジー﹃うんこ文学﹄ 大人になってから、うんこを漏らしたことがあるだろうか? 私はある。 妻が﹁彼女﹂だった頃、同棲先の彼女のマンションで漏らした。西友で買い忘れたものがあるという彼女を残して、鍋の具材を運んでいたときだ。 お腹の調子が悪かったのは覚えている。体の中心に熱泥が吊り下がるような感覚があった。西友のトイレを使わせてもらえばよかったことも覚えている。 だが、間に合うだろうと考えていた。目算を誤らせたのは、食材の重さによる移動速度の低下と、彼女のマンションまでの道のりである。一緒に暮らし始めて間もないため、道を間違えたのだ。 真冬にも関わらず脂汗を流し、全身の筋肉を一点に集中させ、そのことだけは許されまいという思考だけが頭を支配し、奇妙にねじくれた足取りで、走るな、走れば破局だと言い聞か
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﹁いつか読もう﹂はいつまでも読まない。 ﹁あとで読む﹂は後で読まない。 積読をこじらせ、﹁積読も読書のうち﹂と開き直るのも虚しい。人生は有限であり、本が読める時間は、残りの人生よりもっと少ない。﹁いつか﹂﹁そのうち﹂と言ってるうちに人生が暮れる。 だから﹁いま﹂読む。10分でいい、1ページだっていい。できないなら、﹁そういう出会いだった﹂というだけだ。﹁いま﹂読まないなら、﹁いつか﹂﹁そのうち﹂もない。 本に限らず情報が多すぎるとか、まとまった時間が取れないとか、疲れて集中できないとごまかすのは止めろ。新刊を﹁新しい﹂というだけの理由で読むな。積読は悪ではないが、自分への嘘であることを自覚せよ。﹁いま﹂読むためにどうしたらいいか考えろ。﹁本﹂にこだわらず読まずに済む方法︵レジュメ、論文、Audible︶を探せ。難解&長大なら分割してルーティン化しろ。こちとら遊びで読書してるんだから、仕事
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夢中にさせて寝かせてくれず、ドキドキハラハラ手に汗握らせ、呼吸を忘れるほど爆笑させ、ページを繰るのが怖いほど緊張感MAXにさせ、食いしばった歯から血の味がするぐらい怒りを煽り、思い出すたびに胸が詰まり涙を流させ、叫びながらガッツポーズのために立ち上がるほどスカッとさせ、驚きのあまり手から本が転げ落ちるような傑作がこれだ。 この世でいちばん面白い小説は﹃モンテ・クリスト伯﹄で確定だが、この世でいちばん面白いファンタジーは﹃氷と炎の歌﹄になる。 書いた人は、ジョージ・R・R・マーティン。稀代のSF作家であり、売れっ子のテレビプロデューサー&脚本家であり、名作アンソロジーを編む優れた編集者でもある。 短篇・長編ともに、恐ろしくリーダビリティが高く、主な文学賞だけでも、世界幻想文学大賞︵1989︶、ヒューゴー賞︵1975、1980︶、ネビュラ賞︵1980、1986︶、ローカス賞︵1976、1978
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お薦めの世界史の本について、3人で2時間語り合った。 世界史を学びなおす最適な入門書や、ニュースの見方が変わってしまうような一冊、さらには、歴史を語る意味や方法といったメタ歴史まで、脚本家タケハルさん、文学系Youtuberスケザネさん、そして私ことDainが、熱く語り合った。 全文はyoutubeで公開しているが、2時間超となんせ長い。なのでここでは、そこから厳選して紹介する。 因果関係を補完する﹃詳説 世界史研究﹄ スケザネ‥大学生、あるいは社会人の方々にも、世界史を学ぶには、まず真っ先に﹁高校世界史﹂をオススメしたいです。世界の歴史を幅広く知るという観点から、高校世界史はベストだと思います。 代表的な高校世界史の教科書は、山川出版社の﹃詳説 世界史B﹄。世界史の概観が400ページぐらいにまとめられてて良い本なんですが、これだけだと記述が簡素で、理解するには少ししんどい。 実際、自分が
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﹁後で読む﹂は、あとで読まない。 ﹁後で読む﹂は、あとで読まない。 ﹁試験が終わったら﹂﹁今度の連休に﹂﹁年末年始は﹂と言い訳して、結局読まなかった。﹁定年になったら読書三昧﹂も嘘になるだろう。そもそも、コロナ禍で増えた一人の時間、読書に充てたか?︵反語︶ だから﹁いま﹂読む。 たとえ一頁でも一行でも、目の前の一冊に向き合う。いま元気でも、一週間後には、読めなくなるかもしれないから。 今年は、死を意識した一年でもあった。﹁やりたいこと﹂を先延ばしにしてるうちに、感染して望みが断たれる可能性が爆上がりした。 時の経つのは早い。人生が長いほど、一年は短くなる。体感時間は加速する一方、人生の可処分時間は、短くなる。 だから﹁いま﹂読む。 積読を自嘲したりマウント取るのもヤメだ。いま読まない理由を並べ立てて開き直る不毛も捨てよう。そして、ずっと取っておいた、とっておきの本を、いま読む。 そんなつも
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引きこもりによる運動不足を解消すべく、リングフィットアドベンチャーを続けている。だいたい100日で腹が割れてきて、150日で引き締まった身体になった︵体重は変化なし︶。 継続は力は本当だが、続けるためにはモチベが要る。 やせたいとか、腹をへこませたいとか、そんな動機だと、いずれそのうち心は折れる。 たとえ1日20分でも、効果が出るには時間がかかる。長期的な成果の前に、より短期的な動機付けが必要なのだ。 だから、えっちな運動を提案する。 リングフィットでは、自分の動作を主人公のアバターが真似をする。つまり、えっちな運動を選べば、その通りにアバターは動く︵ここ重要︶。 えっちなポーズで静止して主人公さんを眺めたり、運動してる自分の姿を鏡に映して見ることで、ニコニコしながらフィットネス。折れた心は元通り。エロスは全てを解決する。 このゲームには、実に60種類以上ものフィットネスが用意されている。
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アヘン、マーガリン、優生学、ロボトミーなど、科学的に正しかった禍︵わざわ︶いが、7章にわたって紹介されている。あたりまえだった﹁常識﹂を揺るがせにくる。 ヒトラーの優生学 たとえば、アドルフ・ヒトラーの優生学。 劣悪な人種を排除すれば、ドイツを﹁純化﹂できると信じ、ユダヤ人を虐殺したことはあまりにも有名だ。 だが、ガス室へ送り込まれたのは、ユダヤ人だけではない。うつ病、知的障害、てんかん、同性愛者など、医者が﹁生きるに値しない﹂と選別した人々が、収容所に送り込まれ、積極的に安楽死させられていった︵﹃ナチスドイツと障害者﹁安楽死﹂計画﹄が詳しい︶。 ﹃禍いの科学﹄によると、ナチスの優生学は、ヒトラー自身が編み出したものではないという。出所は、﹃偉大な人種の消滅﹄という一冊の本で、ヒトラーが読みふけり、﹁この本は、私にとっての聖書だ﹂とまで述べたという。 ﹃偉大な人種の消滅﹄はマディソン・グラ
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SFをこじらせると哲学になる。 未来思想研究会の読書会に参加したら、おそろしく楽しかったので以下にまとめる。レジュメや板書は、[第22回読書会 テーマ‥知性 ﹃ランドスケープと夏の定理﹄高島雄哉×﹃ソラリス﹄スタニスワフ・レム]をどうぞ。開催された双子のライオン堂のブックセレクトが魅力的すぎて財布を守るのが大変だった︵ここでオフ会したいですな!︶。 ﹃ソラリス﹄と﹃ランドスケープ﹄の違い ﹃ソラリス﹄と﹃ランドスケープ﹄、違いを一言であらわすなら、﹁知性は多様か一様か﹂になる。﹁理解できない知性がある/知性は最終的に普遍性をもつ﹂と言い換えてもいい。わたしは、﹁知性に普遍性がある﹂というブッ飛んだ発想をボコるべく参加した。 まずソラリス。惑星の全域を覆っている知性を持つと思われる海と、その調査に訪れた人を描いた作品だ。傑作の誉れ高く、オールタイムSFベストに挙げる人も多い。いっぽうタルコフ
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秋草俊一郎氏の﹁世界の中の日本文学﹂という講演を聞いてきた[概要]。ともするとアカデミックな古臭さがつきまとう﹁文学﹂を、新しい斬り口から見せてくれる、たいへん興味深い講演でしたな。同時に、とんでもない間違いを、わたしがしていたことに気づかされた。 ■ 世界文学全集の必要性 そこに書かれている経験や感情を分かち合うことで、文学は、読み手の人生を増やす。一生を、二生にも三生にもしてくれる。ここが理解できないと、自分の経験だけを縁に、トライ&エラーのループに陥る。人生はオートセーブで、一回こっきりだけれども、﹁文学﹂がセーブポイントになる。 とはいえ、一人が一生に読める数は限られているし、星の数ある作品から何を読めばいいのか分からない。そういう悩める人のためにカノン︵正典︶はある、と考える。世界文学全集とは、世界の文学を編集したものであるだけでなく、文学の世界の入口にもなる。 たとえば、池澤夏
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一生モノの一冊。 ﹁スゴ本=すごい本﹂の何が凄いのかというと、読んだ目が変わってしまうところ。つまり、読前と読後で世界が変わってしまうほどの本こそが、スゴ本になる。もちろん世界は変わっちゃいない、それを眺めるわたしが、まるで異なる自分になっていることに気づかされるのだ。 ﹃GEB︵Godel, Escher, Bach︶﹄は、天才が知を徹底的に遊んだスゴ本。不完全性定理のゲーデル、騙し絵のエッシャー、音楽の父バッハの業績を"自己言及"のキーワードとメタファーで縫い合わせ、数学、アート、音楽、禅、人工知能、認知科学、言語学、分子生物学を横断しつつ、科学と哲学と芸術のエンターテイメントに昇華させている。 ざっくりまとめてしまうと、本書のエッセンスは、エッシャーの﹃描く手﹄に現れる。右手が左手を、左手が右手を描いている絵だ。﹁手﹂の次元で見たとき、どちらが描く方で、どちらが描かれている方なのか、
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ようやく読めた。岩波青で適わなかった宿題が、やっとできた。新訳はとても読みやすく、かつ、驚くだろうが理に適ったことに、横組みなのだ。 そもそもこれは、どういう本なのか、なぜこれが20世紀最大の哲学書なのか、そして、ずっとたどり着けなかったラストが、なぜ﹁語りえぬものについては、沈黙せねばならない﹂で終わっているのかが、わかった。わたしが難しく考えすぎていたんだ。 これは、数学なんだ。 哲学的なことについて書かれてきたことの大部分は、意味がないという。なぜなら、﹁哲学的なことについて書かれてきたこと﹂は、言語を使っているから。プラトン以来、西洋哲学の歴史は、言語の論理を理解していないことによるナンセンスな言説の積み重ねなんだと。なぜなら、﹁言語の論理を日常生活から直接引き出すことは、人間にはできない︵No.4.002︶﹂から。 このあたりの説明は、本書の冒頭にある野家啓一﹁高校生のための﹃論
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数学の﹁正しさ﹂について、ぎりぎり迫った一冊。 何によって数学的な﹁正しさ﹂を認識するのか、その根拠とでもいうべきもの、正しさの深層にあるものを掘り起こす。 本書の結論はこうだ。数学の正しさの﹁規準﹂は明快だが、正しさの﹁根拠﹂は極めて非自明である。そもそも﹁正しさ﹂に根拠などというものがあるのか?この疑問への明快な解には至らないにせよ、そこへのアプローチにより、数学の﹁正しさ﹂が少しも自明ではないこと、そしてその非自明性が数学を柔軟性に富んだものにしている―――この結論のみならず、そこへ至る議論の数々が、読み手に知的な揺さぶりをかけてくる。数学の正しさを疑わない人には、頭にガツンと一撃を喰わされる。 もちろん数学は﹁正しい﹂。[Wikipedia]によると、数学とは﹁いくつかの仮定から始めて、決められた演繹的推論を進めることで得られる事実︵定理︶のみからなる体系の研究﹂である。そこにおけ
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