ldpとkyushuに関するnabinnoのブックマーク (2)
-
麻生 太賀吉︵あそう たかきち、1911年9月29日 - 1980年12月2日︶は、日本の実業家、政治家。麻生セメント会長。衆議院議員︵3期︶。妻和子は吉田茂の三女。 来歴・人物[編集] 1911年︵明治44年︶9月29日、九州の炭鉱王麻生太吉の三男・太郎を父に、子爵加納久朗の妹・夏子を母として福岡県嘉穂郡飯塚町︵現飯塚市︶に生まれる。1929年︵昭和4年︶に旧制福岡中学校︵現福岡県立福岡高等学校︶を卒業し、昭和4年から昭和7年まで九州帝国大学︵現九州大学︶法文学部聴講生。1931年︵昭和6年︶に祖父の経営する麻生商店に入社し、1934年︵昭和9年︶に社長となる。1935年︵昭和10年︶、帝国軍人後援会福岡県支会経費として2000円寄付により1937年︵昭和12年︶褒状下賜[2]。1939年︵昭和14年︶、昭和六年乃至九年事変関係で国防充実費、軍人慰恤金として陸軍省へ4000円、慰問袋40
-
麻生 太吉︵あそう たきち、1857年8月26日︵安政4年7月7日︶ - 1933年︵昭和8年︶12月8日︶は、日本の炭鉱業者、実業家、政治家。第92代内閣総理大臣麻生太郎の曾祖父。 麻生商店社長、石炭鉱業連合会会長、九州水力電気社長、衆議院議員、貴族院多額納税者議員などを歴任した。 年譜[編集] 1857年 - 7月、筑前国嘉麻郡栢森村︵現在の福岡県飯塚市柏の森︶に村の庄屋︵今でいう村長︶を務めていた父・賀郎、母・マツの子として生まれる。幼名は鶴次郎。 1868年 - 1月、村に対する貸渡金595両余を免除したことにより倅代まで“大庄屋格”を申し付けられ、麻生の苗字名乗りを許される。 1869年 - 上野彦三郎の私塾に入り修学。 1871年 - 6月、檀那寺川島正恩寺住職井上誓存について修学。 1872年 - 太吉と改名。目尾御用山を共同で採掘し、初めて炭山開発事業に着手︵麻生炭坑の興り
-
1