ブックマーク / shinichiroinaba.hatenablog.com (6)
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もちろん﹃水星の魔女﹄は意匠としての百合を利用しただけであってクィアにコミットしようとしたわけではない。また百合も主題というよりは本来の主題の副産物として導き出されたものではなかろうか。本来の主題が何かといえば、訴求力の強いテレビシリーズとしては初の女性主人公のガンダム、というところである。ただそこで、それでは主人公の傍らに配するパートナーをどうしようか、という問題が浮上した。そこでパートナーを男性にしてしまう、という選択肢ももちろんありえたのだが、女性にしてしまった。その結果が百合というフォーマットの採用である。そのように考えるならば、女性を主人公、エースパイロットにするという点では性別役割批判として革新的だが、サポート、バックアップ担当のパートナーもまた女性にしてしまったという点では、むしろ不十分だった。こういう意地悪な見立てもできる。海外クィア勢からの率直な支持に比較したとき、国内ク
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﹃新世紀エヴァンゲリオン﹄の主人公碇シンジは内向的で自罰的なヘタレ、ということになっているが、それは本当のことなのか、という疑問はかねてから提起されていた。実際には内向的で自罰的なヘタレは彼の父碇ゲンドウの方であり、権力によってそうした弱さを鎧った父によって一方的に翻弄され虐待される子どもがシンジなのだ、と。実際、料理を含め家事全般をそつなくこなすシンジは、養育者によってかなりよくしつけられており、むしろできすぎた子どもでさえある。彼は周囲から、とりわけ父︵の意を汲む組織から︶﹁内向的で自罰的なヘタレ﹂と決めつけられた上であしらわれ、そこからの脱却という形での成長を促される。それを内面化して引き受けるための自己呪縛が例の﹁逃げちゃダメだ﹂なのだ。 ゲンドウがやろうとしていたことが失われた伴侶ユイを取り戻すことでしかなく、そのために全人類を巻き込む陰謀を巡らしていたこと、そのために息子シンジ
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﹃アルファ・シノドス ―“α-synodos”﹄vol.46︵2010/02/15︶、vol.81︵2011/8/1︶から転載。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◇高木仁三郎氏に感じた﹁違和感﹂ 今回の東日本大震災は十分にひどい経験であった。いや、過去形にしてはならない。未だにそれは進行中である。 それは従来日本が経験したほとんどの自然災害と異なり、その被害が局地的にコミュニティを破壊するだけにとどまらず、複数のコミュニティに同時に襲い掛かり、かつそれらを結ぶネットワークをも寸断した。 正直言ってぼくはロジスティックス、物流というものを舐めていた。1個単位で商品の動向を把握するPOSが象徴する物流システムの洗練に、すっかり油断させられていた。日本を含めた先進国において、電子的なデータ通信ならともかく、ものの流通がこれほど深刻に滞り、人命を危機にさらすようなことが起こりうるとは、正直想像
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ミルをベンチマークとして市民的公共圏の理念について考えてみると、近代市民社会の経済的側面は私的所有と契約の自由を基盤とした自由な市場経済に、政治的側面は思想の自由・表現の自由とその基盤としてのパブリック・フォーラム︵自由で安価な出版とジャーナリズム︶を前提とした議会政治によって代表される。そしてそのどちらも自由で自立した個人としての市民の、自由で自発的な行動の結果作られる社会秩序として理解されている。 ﹁公共性の構造転換﹂とは、﹁自由で自立した個人が形作る社会秩序﹂という理念がリアリティを失い、社会がそれこそハーバーマスの表現を借りれば﹁生活世界﹂とは区別されたものとしての﹁社会システム﹂として、すなわち自由な個人が作り上げるのではなく、個人に対して外在的によそよそしく超越して、その自由を拘束する仕組みとして人々に体験されるようになる、という過程である。それは経済的な側面ではマルクス主義の
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梶谷氏が某誌某特集での﹁親中﹂左翼知識人の書き物を﹁日本人による中途半端な体制擁護の論考﹂と大変に痛烈な一言で切って捨てておられる。某誌を見ているわけではないが、氏のこれまでのたとえば孫歌ならびにそのシンパへの酷評ぶりなどから見ても非常に納得のいくご発言ではある。この感覚は塩川伸明氏が和田春樹氏を批判した際のそれと通ずるものであることは言うまでもない。 それにしてもぼくも世の中には﹁大人の事情﹂というものがありうること、現状では例えば﹁中国をたたいていればそれでよいというものではない﹂ということ自体はもちろん否定しない。たとえば大屋雄裕氏が﹁おまえは中共のケツをなめているとは言われてもやむを得ない﹂とおっしゃる時に、その言葉じりを取る気にはなれない。 しかし、ケツの舐め方にもいろいろあるだろう。仮に大屋氏も某誌もどちらも﹁中共のケツをなめているとは言われてもやむを得ない﹂としても、そこには
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考え方はいろいろあって、まず﹁マルクスの思想は現代経済学・ゲーム理論と整合的である﹂という大前提から出発する。そうするとここで﹁だからマルクスも再読に堪える﹂という考え方も出てくれば、逆に﹁だったらマルクスイラネ﹂という考え方も出る。この違いはどちらが正しいか、という問題ではない。要はそれぞれの受け手の側での事情の違いである。マルクスを含めた﹁思想﹂によりなじみの深い人文系インテリにとって﹁だからマルクスも再読jに堪える﹂という結論には十分に意味がある。こうした層にとってはマルクスと併せ読むことによって、現代経済学・ゲーム理論の理解がはかどる可能性があるからだ。 ただそれだけで済ますわけにもいかない。 山形の場合も﹁だったらマルクスイラネ﹂という結論は、何の気なしに出されているわけではない。マルクスには激烈な副作用があり、その副作用を勘案するならば、なくてすませられるなら敬して遠ざけるに越
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