文学に関するpirachanのブックマーク (4)
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先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。 ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が﹁日本もダンスとケーキがうまくなったな﹂と言ったことである。昭和37年︵1963︶くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。 それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは︽ウェストサイド・ストーリー︾の影響だろうと思うのだが、
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招待席・出版編集 平塚 らいてう ひらつか らいちょう 思想家 1886.2.10 - 1971.5.24 東京に生まれる。女性達の手になった日本初の文藝誌﹁青鞜﹂を主宰。 掲載作は、明治四十四年(1911)九月その創刊号にかかげた歴史的宣言であり、時にらいてうは二十六歳であった。大正五年(1916)二月号をもって終刊したが、女性の﹁人間﹂としての真の自由解放をうたいあげた真意は深く時流に生きて、太平洋戦争後もらいてうは永く反戦平和婦人運動の先頭に起ち続けた。 元始女性は太陽であつた。――青鞜発刊に際して―― 元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。 偖(さ)てこゝに﹁青鞜(せいたふ)﹂は初声(うぶごゑ)を上げた。 現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た﹁青鞜﹂は初声を上げた。 女性のな
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小説﹁煤煙﹂ »︿ふたり﹀へ森田草平と平塚らいてう―栃木・塩原温泉 朝出かけた若い男女のふたりが、帰ってこない。栃木県・塩原温泉の老舗︵しにせ︶旅館﹁満寿家︵ますや︶﹂の主人が異変に気づいたのは、1908︵明治41︶年3月23日の夕刻だった。 足湯の湯煙が立ち上り、箒川の川音が響く。100年前のふたりは雪の上をさまよった=栃木県那須塩原市で 塩原渓谷を流れる箒川に秋の夕日が差し込む=栃木県那須塩原市で 草平がやっかいになった漱石の家の跡には胸像が立つ=東京都新宿区で 思いつめた様子のふたりは前夜、この宿に入った。出入りの人力車夫に聞くと、温泉町のはずれで降りて、峠の方へ向かったという。春彼岸とはいえ、山は雪で覆われ、会津に通じる尾頭︵おがしら︶峠は雪が深く、雪解けまでは通れない。主人はあわてて駐在に知らせた。 その頃、ふたりはひざまでの雪に悪戦苦闘していた。一面の雪で道に迷い、つまずき、つ
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一般財団法人 理数教育研究所が開催した﹁算数・数学の自由研究﹂作品コンクールに入賞した﹁メロスの全力を検証﹂︵PDF︶という研究結果がとても興味深いです。中学2年生の村田一真くんによるこの検証では、太宰治の小説﹁走れメロス﹂の記述を頼りにメロスの平均移動速度を算出。その結果、﹁メロスはまったく全力で走っていない﹂という考察に行き着きます。端的にいうとメロスは往路は歩いていて、死力を振りしぼって走ったとされる復路後半の奮闘も﹁ただの早歩きだった﹂というのです! なんてこった! 中学校の部で最優秀賞に輝いた﹁メロスの全力を検証﹂ メロスは作中、自分の身代わりとなった友人を救うため、王から言い渡された3日間の猶予のうち初日と最終日を使って10里︵約39キロ︶の道を往復します。今回の研究ではこの道のりにかかった時間を文章から推測。例えば往路の出発は﹁初夏、満天の星﹂とあるので0時と仮定、到着は﹁日
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