小学館の取材で「家族」についてお話しをする。 もう何度も書いていることだが、親族制度というのは言語や経済活動と同じだけ古く、それを営むことができるという事実が人間の人間性を基礎づけている。 と書くと「ああ、そうですか」と退屈そうなリアクションをする人がいそうだが、人間とサルを分岐するのがその点であるということは、見方を逆にすれば「およそ人間であれば、誰でもできる」ということを意味している。 そこのところを当今の家族論は見落としているのではないか。 家族について論じている言説に触れて、つねに感じることは「そんなむずかしいことが『ふつうの人間』にできるわけないでしょ」ということである。 かつて「アダルト・チルドレン」という言葉がはやったことがあった(死語になってくれたようでうれしい)。 機能不全な家族で育った子どもがその後社会的能力が劣化する現象をいうのだが、そのとき列挙されていた機能不全家族
この本について書こうと思うんだけど、なかなか文章が出てこない。それはきっと、この対談のお二人と同様に僕自身が、無意識のうちに持っていた親との関係の歪みをコトバにしてさらけ出すのが怖かったからだな、と今ならこうやって書ける。このお二人はそれぞれ全く両極端なぐらいに親との関係が違う。方や左翼思想バシバシで会社や家庭に君臨する自分勝手な父親と夫からは卑下され娘を全く愛せない母親を持つ娘、そして表面上は息子を溺愛し愛情たっぷりな母親、でも実体は息子を自分のためだけの道具として利用しようとして自我を潰そうとする恐ろしい母親を持つ息子。どちらも親から愛されたことがないという自覚が、ハッキリとしている。その認識を出発点にして対談は進む。二人の対談で明らかにされる凄まじいエピソードの数々。だいたい対談の最初の1行がこれだ。原田:岸田さんは、親を殺したいと思ったことがありますか? 二人のエピソードは本文を読
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