批評に関するs_atom11のブックマーク (66)
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アニメ評論家・藤津亮太が2022年のアニメ映画を振り返る。キーワードは﹁大波のような映画﹂と﹁石のような映画﹂。激しいアクション、キャラクターの感情といった魅力の横溢する﹁大波のような映画﹂が趨勢であるように見えるが、確実に﹁石のような映画﹂が増えつつある。たとえば﹃かがみの孤城﹄のような……。進化しつづけるアニメ表現を考察。 期待されている﹁大波のような映画﹂ ﹁大波のような映画があり、石のような映画がある。石のような映画をつくったのは、たぶん小津とブレッソンだ。一方、大波のように映画をうねらせるのはスピルバーグだ。セルジオ・レオーネだ。ベルトリッチだ。﹂ 映画評論家の畑中佳樹は著書﹃夢のあとで映画が始まる﹄の中でこんなふうに記している。多分に感覚的な言葉ではあるのだけれど、だからこそ実感に訴えてくる部分がある。 2022年のアニメ映画を振り返ると当然ながら﹁大波のような映画﹂が注目を集
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日本公開から半年を経て、細田守の﹁竜とそばかすの姫﹂がアメリカで公開された。英語のタイトルは﹁Belle﹂。日本語に英語字幕のバージョン、英語吹き替えのバージョンの選択肢があり、L.A.のウエストサイドの映画館でも両方が上映されている。 アメリカ公開前にも、今作はL.A.映画批評家協会賞のアニメーション部門で次点を取ったり︵受賞したのはデンマークの﹃Flee﹄︶、アニー賞にノミネートされたりするなど、評判は上々だった。オスカーの長編アニメーション映画部門のショートリストにも食い込んでいる。 公開を受けての批評家の評も、かなり良い。Rottentomatoes.comによると、批評家の96%が褒めている。星取りでは4つ星満点の3つ、あるいは5つ星中の4つというのが多いが、中には5つ星満点の5つ星をつけた批評家もいる。 批評の多くは﹁美女と野獣﹂へのオマージュについて触れている 満点をつけたの
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1997年に公開された映画﹃タイタニック﹄は全世界で約22億ドル︵約2400億円︶もの興行成績を上げた大ヒット作である。 ©️世界中で大ヒットした映画﹃タイタニック﹄。物語のテーマになったタイタニック号の沈没は、宮沢賢治﹃銀河鉄道の夜﹄の中にも描かれている ©️getty この﹃タイタニック﹄と奇妙な縁がある作品が、1985年に公開されたアニメ映画﹃銀河鉄道の夜﹄だ。この縁は“偶然の産物”でしかないのだけれど、そこを意識しながら2つの映画を見ると、それぞれの作品がより立体的に楽しめるようになる。では2つの映画が、どんな縁で結ばれているか順番に紐解いていこう。 1912年4月10日、タイタニック出港の日 全ての始まりは1912年4月10日。豪華客船タイタニック号は、アメリカ・ニューヨークを目指して、イギリスのサウサンプトン港から初航海に出発した。航海は順調に進むかに思えたが、出発して4日後
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※本稿には、﹃シン・エヴァンゲリオン劇場版﹄の結末を含む内容への言及があります。 ﹃シン・エヴァンゲリオン劇場版﹄のラストカットは、とても奇妙な映像だ。しかし、それは嫌な奇妙さではない。 宇部新川駅を空撮で撮影した実景映像がベースなので、実写映像と言えるかもしれない。しかし、その現実を切り取ったはずの実景の映像に現実でないものが交じり合っている。 走り去るシンジとマリは手描きのアニメーションだ。よく見ると道行くモブキャラも大半がおそらくCGで作成された架空の通行人である。しかし、本当に撮影時にいたであろう、自転車に乗った生身の人間や通りかかった車も存在している。そして、すでに引退した過去の車両が走っている。現実に存在するものと、存在しないもの、そして、かつて存在したものが同居している。シンジとマリは、CGのように実景と馴染ませるわけでもなく、3コマ打ちのアニメキャラとわかるようにそのまま存
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3月1日に新刊﹃アニメと戦争﹄が日本評論社から発売された。本書は、戦中から21世紀までの、現実・架空を問わず戦争を取り扱ったアニメを取り上げ、そのアプローチの変遷を俯瞰した1冊だ。本書第1章の﹁﹃ゲゲゲの鬼太郎﹄という“定点”﹂は、当連載の﹁﹃ゲゲゲの鬼太郎﹄シリーズにおける“戦争”の描かれ方の変遷﹂を加筆・リライトしたもので、本全体の序章的な位置付けを担っている。 今回はこの﹃アニメと戦争﹄の﹁追補﹂ということで、物量の問題や話題の流れが理由で本書の中に組み込めなかった話題をひとつ取り上げたい。取り上げるのは﹃今、そこにいる僕﹄。同作は1999年10月からWOWOWで全13話が放送された作品だ。 平凡な中学生・シュウは、学校の帰り道に不思議な少女、ララ・ルゥと出会う。そこに竜のような奇妙な機械に乗った兵士が現れたかと思うと、シュウは突然見たこともない世界に立っていた。 その世界では、要塞
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︵※再公開です︶ 批評理論入門―﹃フランケンシュタイン﹄解剖講義 (中公新書) 作者:廣野 由美子 発売日: 2005/03/01 メディア: 新書 批評ブログやりたいわけじゃないんだけど、物語作品の考察なり分析なり書こうとするとどうしてもこういうところの参照が要請されるので再確認のためにも出してきました。 日本の読書文化が誇る中公新書における名著の1つなので今更感はあるけど、こういうのは書いとくに越したことはないでしょう。今はこんなのも電子版出ててすごいね。 題名は﹁批評理論入門﹂となっているけど、思い切って言えばこれは﹁小説の読み方﹂を教えてくれる本です。もちろん映画でもアニメでも物語ならなんでも役に立つ。このジャンルの入門書でこの本を越えるものは令和3年の今でもおそらくまだない。入門書と言っても何度も読み返すに値する深みを持っている、正しく新書版の名著と呼ぶにふさわしい本です。 1.
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ドラえもん のび太の新恐竜はいうなればたちの悪い﹃江戸しぐさ映画﹄だった。 いろいろと許せないところはあるけれども、一番大きな理由、始祖鳥先輩を無視していること。無視していることが問題なのではなく、そういうことをする姿勢が問題。感動させるためには、何をやってもいい、歴史になかったことをあったことに、あったことをなかったことにしてもいい、というスタンス。”感動することをやっているのだから歴史を捏造してもOK”という江戸しぐさしぐさ。これをよりによって、ドラえもんでやるということが、本当に度し難い。 のび太の新恐竜のあらすじ あらすじを話さないと、どこがどう悪いのか、ということが言えないのであらすじを書きます。ネタバレが嫌な人はここで回れ右してください。 のび太が恐竜展に併設されている発掘体験コーナーでスネ夫とジャイアンに丸ごとの恐竜を見つける!見つけられなかったら目でピーナッツをかむ!と宣言
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私がこうの史代原作のアニメ映画﹃この世界の片隅に﹄を見たのは最近のことです。単に出遅れていました。でも、本作が上映され始めたとき、少し衝撃を受けたことはよく覚えています。﹁祖母と見に行った﹂﹁祖母のことを思い出した﹂というつぶやきがSNSやブログにあふれたのです︵注1︶。 ︵注1‥例えばこのまとめにある記事など。http://momomomo1232.hatenablog.com/entry/2016/11/30/010619︶ その時は素直に、これはすごい作品なのかもしれないと思いました。ですが、なぜこんなにも、北條すず︵旧姓浦野︶というヒロインを自らの祖母や母に重ねる人が多いのか、と奇妙な感じも残りました。 仕事で予定が合わず、1月の末にようやく映画を見に行きました。そして漫画原作も購入して読みました。以下では基本的に映画版についての感想を中心に書きますが、必要に応じて適宜漫画版につい
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文 北村紗衣 武蔵大学准教授であり、さまざまな芸術作品をフェミニスト批評という観点から読み解いた﹃お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門﹄の著者・北村紗衣さんに、1935年に公開されたフランス映画﹃女だけの都﹄を紹介いただきます。 作中で描かれる男女の関係性は、2020年時点の日本社会にも共通する点が多いのだそう。今を生きる私たちと85年前の作品との共通点や、そこから見えてくるものとは? ※ 編集部注‥以下には、作品内容に触れる情報が含まれています 管理職に就く女性がまだまだ少ない日本の現状 女には何もできない、専門的な仕事や政治などは男のものだ、という考えは長きにわたり、男性のみならず女性を縛ってきた。現在の日本にもそうした風潮が強くあり、国会議員の女性比率は先進国で最低レベル*1、管理職に占める女性の割合もG7最下位*2だ。 これは日本の女性が努力し
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特に前置きもなく始めるが、まず、最初に気になった点。本書には出典の表記が見当たらないのである。 最近、幻冬舎から歴史書という触れ込みで出版された﹃日本国紀﹄が、他の文献やウェブからの多数の転載があるにもかかわらず参照元の表記がない点で、厳しい批判を受けている。てらさわホークも、著者のことをTwitterで何度か批判していたようだ。しかし、この﹃究極批評﹄という書籍もまた、同様の欠陥を抱えているわけである。いや、これはただの﹁映画エッセイ﹂なのだから、そこまで厳密にする必要はない、ということなのかもしれない。しかし、それならば﹁批評﹂という言葉を安易に使っては欲しくない。また、単なる雑文集と割り切って読むにしても、参考文献の記載すら無いというのは、さすがに困ってしまう︵ちなみに、この本には膨大な欄外註があるので、スペースの都合という理由ではなさそうだ︶ 具体例をひとつ上げてみよう。本書では、
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脚本とは、作品の設計図である。設計図が狂っていたらどんな建物も建たないのと同じで、しっかりした脚本がなければ、映画もアニメも作れない。映画学校時代、﹁良い脚本を悪い映画にすることはできる、しかし悪い脚本を良い映画にはできない﹂と口酸っぱく講師に言われたことを覚えている。 今、日本のアニメ界で最も信頼できる脚本家は誰か、と問われれば筆者は﹁吉田玲子﹂と即答する。花田十輝も横手美智子も小林靖子も岡田麿里も素晴らしいが、設計図としての脚本の安定感が図抜けており、ジャンルを問わず高水準の作品を産み出し続けている。 ﹃映画 聲の形﹄﹃リズと青い鳥﹄などの山田尚子作品、青春映画﹃夜明け告げるルーのうた﹄、児童文学の映画化﹃若おかみは小学生!﹄や﹃かいけつゾロリZZ︵ダブルゼット︶のひみつ﹄、戦車や戦艦のバトルもの﹃ガールズ&パンツァー﹄と﹃ハイスクール・フリート﹄、女性に人気のスポーツもの﹃弱虫ペダ
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マンガ﹁この世界の片隅に﹂には、﹁かく﹂場面が多い。鉛筆で、絵筆で、羽で。すずはかくことが好きだ。婚礼の日ですら、嫁ぎ先の片隅に居場所を見つけ、行李の前に座り込んで兄に絵入りのはがきを書く。祝いの席で出た食べものをひとつひとつ鉛筆で絵に描いてから、﹁兄上のお膳も据ゑましたよ。せめて目でおあがり下さい。﹂とことばを添える。しかし翌朝、はがきの表に自分の名前を書き終えたすずの手がふと止まる。すずは新しい家族に尋ねる。﹁あのお………… ここって呉市…? の何町…? の何番ですか?﹂ ﹁ぼうっとしている﹂すずは、嫁ぎ先の住所すら把握していなかったというわけなのだが、ここでわたしがなぜ﹁すずの手がふと止まる﹂と書けたかといえば、マンガのコマ運びがこうなっているからだ。 ︵﹃この世界の片隅に﹄上巻80ページ︶ すずが表書きを書くコマはわずか3つにすぎない。けれど読者はこの3コマから、鉛筆の動きと停滞
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その間のすべての文章は、僕の基準では批評ではない。 そう思ってほしい。 それくらい、この作品には一度ガチでぶつかってみたい。そう思ったのだ。 ﹁批評とは政治だ﹂と種明かしをしてしまった以上、僕の言説はより強い色眼鏡で見られることになるだろう。
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公開3週目を迎えても﹃シン・ゴジラ﹄の勢いは依然、衰えを見せない。IMAX、MX4D、通常上映と、毎回環境を変えて観ていたが、この原稿を理由にまた劇場に足を向けてしまった。高圧縮の情報量、現実の反映、オマージュ、トリヴィア、語られないまま終わった謎への解釈など、まるで20年前の﹃新世紀エヴァンゲリオン﹄テレビシリーズ放送終了後から翌年の劇場版公開にかけての熱狂が再現されているようだ−−と言っては言いすぎだろうか。いずれにせよ、繰り返し観ることで細部を語る魅力が増す作品であることは間違いあるまい。 マイナスをプラスにさせる庵野秀明のアレンジ ここでは、︿庵野秀明にとってのゴジラ﹀から話を始めてみたい。というのも、特撮好きなエヴァの監督というイメージから誤解されがちだが、これまで庵野はウルトラマンほどの熱狂をゴジラには見せていなかったからだ。﹃シン・ゴジラ﹄の原点となる第1作の﹃ゴジラ﹄︵54
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囚人番号6 @F4EJ2Phantom ﹃機動戦士ガンダム﹄のガンダムが圧倒的な強さを誇ったのは﹁1‥弾数に限りがあるが、戦艦の主砲並みの威力を持つビームライフルを装備していた。2‥敵の主兵装ザクマシンガンの砲撃を物ともしない装甲。3‥既存のMSには不可能な、ほぼ飛行と言っても過言ではない跳躍力を持つ。︵続 2014-02-16 18:57:23 囚人番号6 @F4EJ2Phantom 続︶4‥戦闘を重ねることによって、敵の行動パターンを学び、予測され得るその攻撃に対して適切な行動プログラムを構築する教育方コンピュータの存在﹂があってのことだろう。あ、最後にひとつあった。﹁アムロ・レイというヒューマンファクター﹂これが最強の理由だな。 2014-02-16 19:02:37
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基本的に映画というものは、誰がどのように語っても構わないとは思うのだが、それが間違った情報に基づいていたり、劇中で描かれているものを無視しているようなものは、問題があるだろう。てらさわホークという方の﹁モヤモヤ超大作﹁マン・オブ・スティール﹂のスーパーマンが煮え切らない件﹂という一文が、まさにそれだった。以下に、事実誤認と思われる箇所を指摘してみる。 ︵…︶滅亡したはずのクリプトン星から地球に侵攻してきたゾッド将軍。この狂った軍人とスーパーマンがもの凄いバトルを繰り広げる。︵…︶派手にブッ壊れる高層ビル、あっという間に崩壊寸前に追い込まれる大都市。地上では瓦礫に閉じ込められた一般市民が死を覚悟している。そういう彼らをスーパーマンが助けるのかと思う。ところがヒーローは彼らに一切、目をくれることすらしないのだ。 まず、これは端的に言って見落としだ。メトロポリスでのアクションの結末では、無辜の市
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日本映画・洋画を問わず、ネタバレ・あらすじを交えて感想(レビュー、 批評、 解説…?)を語りながら、映画の魅力を再発見していきましょう。ラストを明かすことも。 遂に公開された第六章には深く考えさせられた。 ﹃宇宙戦艦ヤマト2199 第六章 到達!大マゼラン﹄が面白いのは判りきっている。なにしろシリーズ最大の見せ場ともいえる、七色星団の決戦が描かれるのだ。つまらないわけがない。 三隻の多層式航宙母艦と戦闘航宙母艦、そしてドメル上級大将の乗艦ドメラーズIII世からなるドメル機動部隊の姿は、旧作のドメル艦隊に勝るとも劣らない勇ましさだ。特殊削岩弾(旧ドリルミサイル)や物質転送機(旧瞬間物質移送器)もしっかり再現し、ドメル及びヤマト双方の砲撃戦や、艦載機による空中戦は本当に大迫力で、まばたきするのも我慢して目を見開き続けた。 あえて七色星団海戦の残念なところを挙げるとすれば、第19話﹃彼らは来た﹄
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町山智浩さんが、﹃漫画アクション﹄連載コラムに書かれた﹁映画 鈴木先生﹂評のノーカット版が、町山さんのブログに掲載され、話題を呼んでいるようです。 http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20130219 19日に掲載されたばかりですが、ブックマークは100を超え、ツイッターでもどんどん拡散している模様。ツイッターを見ると、︵﹁鈴木先生﹂が連載されてた﹃漫画アクション﹄でこれを書くことも含めて︶町山さんすごい的な感想が添えられていることも多いのですが、それらのツイートのほとんどは、実際には映画を見ていない人によるもののようであることに不安を覚えます。 批評家として、自分が抱いた感想は、掲載媒体にも遠慮せず、はっきり述べるというのは、まったくもって正しく、むしろ﹁鈴木先生﹂的だと言えると思います。なので、町山さんが映画版批判を書かれているという情報を得たときは、おおさ
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