ブックマーク / suumo.jp (2)
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写真・文: 児玉雨子 NEWoMANがCIALと東急ホテル︵横浜エクセルホテル東急︶だったころ 地元というのは何をもってそう定義されるのだろうか。横浜市に長らく住んでいたが、幼稚園から都内の学校に通っていたので、実家の近所に昔からの同級生はいないし、﹁横浜市歌﹂も歌えないし、市内の公立中学校に給食がないこともつい最近知った。 さらに親はそれぞれ西日本出身で、親戚の中で私はひとり﹁東京の子﹂であった。都内の学校に通っていたといっても23区外の町田市にある学校だったから、その﹁東京の子﹂という言葉も、ボウリングやジムのレンタルシューズみたいに、ま、ぴったりじゃないけど気にしなければ慣れるか、といったふうに甘んじて受け入れてきた。もういちいち東京じゃなくて横浜だと訂正するのも面倒だった。 かといって横浜を地元と呼ぶことにも少し後ろめたさも感じる。エッセイの仕事︵この原稿もそう︶で地元の話をしてほ
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著‥ もぐもぐ 自分の人格形成に影響があったものはいくつもあるけど、そのうちの大きな1つが育った街だと自信を持って言える。 昼夜問わず雑然としてた。常に発展途上な感じだった。妙なエネルギーがあった。不思議な独立心があった。大人ぶった子どもも、子どもみたいな大人もたくさんいた。ごちゃごちゃしててガヤガヤしてて、治安はお世辞にもよいとは言えなかった。都会と田舎、新しいものと古いもの、小ぎれいさと汚さ。すべてがグラデーションで重なっていて、つかみどころがない町田。東京なの?神奈川なの?とネタにされることも多い。 中学から都心の学校に通っていたので、地元を歩くときはたいてい1人だった。友達と遊んだ記憶はあんまりない。 でも、1人で心を満たす場所と方法はたくさんあった。 109︵町田にマルキューができたときの誰に対してか分からない得意げな気持ちよ!︶やJORNAやルミネやマルイで買い物したり、とにか
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