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都知事選
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以前のエントリで触れたように、社会学という学問は往々にして誤解にさらされるものだ、と、当の社会学者自身が思っている。社会学が他の学問より誤解を受けているという証拠はないけれど、少なくとも研究対象になるものが、専門家以外でも触れることのできる、多くの人が経験したことのある出来事だからこそ「社会学者の見方は間違っている」と非難されることが多くなるのは確かだろう。その非難は、学術を専門としない当事者だけでなく、同じ対象を扱っている他分野の研究者からなされることもある。 たとえば昨年開催された日本社会学会におけるシンポジウム「社会学への冷笑と羨望――隣接分野からのまなざし」は、そのような他分野からの視点を学会的に取り入れようという意欲的な試みで、僕自身は参加しなかったのだけれど、とても刺激的なやりとりがあったようだ。学会員向けのニュースレターによると、環境経済学の専門家から指摘されたのは、環境問題
時間の停止した世界で 昨年は、数年に一回とも言えるほどにたくさんの仕事をした年だった、と1年前のブログには書かれている。そして、「どうせなら、いい時間にしたい」という、人生観の変わる年であったとも。おそらく、とても充実していたのだろう。 その点について言えば、今年も、ほんとうに充実した年だった。ただし決してポジティブな意味ではない。2月頃からコロナ禍が国内でも顕になり、そのタイミングで学部執行部の仕事を引き継いだ。最初に行ったのは、600名以上いる新入生のガイダンスをオンライン化すること。そして、1年生の必修科目の教材のオンライン化だった。 4月の緊急事態宣言のさなか、こうしたオンライン化を乗り切れたのは、偶然がいくつも重なったからだ。昨年度までにノーコードでスマホサイトを構築するノウハウはできていたし、「THE FIRST TAKE」に感化されて1月には買い揃えていたレコーディング機材も
音楽が傷ついた1年 もしも2020年にインターネットがなかったら。コンテンツを無料で見られるところで公開するなんてありえない、という時代だったら。それはもう大混乱だったと思う。新曲をプロモーションする場はテレビにしかないのでヒット曲は極端に偏り、ライブ興行のできないインディーズバンドが苦境に立たされ、ファイル交換ソフトで新曲のリリースなんてことになってたかもしれない。たとえばいまが2000年代だったら。 幸いなことに2020年になるまでに、音楽が人々に届けられる環境のDXはかなり進んでいた。音楽配信はサブスクリプションが標準化され、今年は複数の大物アーティストの楽曲がサブスクリプションで配信(「解禁」という言い方は好きじゃない。誰も禁止なんかしてないもの)されるようになり、YouTubeにアップされたPVは、作り込まれたアニメ調で情報量が多く、それを深読みするファンの存在もあってコンテンツ
もしも僕がいま、二十歳の大学生だったら、それはもう相当に怒っていたと思う。 高校までは再開して、アルバイトでは感染対策をした上で通常の業務を行うのが当然と言われ、それなのに大学は年度内ずっとオンライン。大学からの説明は不十分であるか、説明があったとしても「大学への通学は感染リスクが高いから仕方がない」「ただし学費は満額いただきます」だ。大学教員のブログを見れば「大学は感染対策を甘く見ている。今後もずっとオンラインの覚悟を持つべきだ」「大学は不当に批判されている、私たちも頑張っているのに」とくる。ついでに言うなら、学生の授業環境の改善について指針を示すのではなく、おおむね大学の対応に文句をつけ、学生にもそのような見解を共有するだけであることも多い(なお、給料とボーナスが例年通り支給されていることについては伏せられている)。 もちろん僕は教員側なので、そうした学生の主観的な思い込みには、いくつ
普段にも増して、コロナ禍の状況でネットを見なくなった。SNSなんて心の健康に悪いだけだ、と思っているからだけど、もちろん情報収集を怠るわけにはいかないので、どうしても目に入ることはある。そんな中で読みながら心が痛くなったのが、こちらの一連のツイート。 いわゆる「リプ欄が地獄」というやつだろうか。美大に通う1年生の学生が、なぜ大学だけは対面が許されないのかと嘆くのに対して、なぜか批判的なリプライが続き、それに対する批判のリプライが連なり、という流れ。そして拡散されていくに従って「自分もまったく同じ」「共感する」というリプライが増えていく。こう書くといかにもネット炎上について記事にしているみたいでそれも気が重いのだけれど、自分が当事者であることも含めてどうしてもスルーはできず、珍しく上から下まで読んでしまった。 社会全体として「自分だって我慢しているのにあいつらときたら」「あいつらのせいで真面
異例続きだった2020年度の春学期(前期)も、7月半ばで授業期間が終了し、学生たちはまだ課題などが残っているものの、実質的に夏休みに入る。全国の大学がそうであったように、僕の勤め先でも授業がすべてオンライン化され、昨年までは対面で行われていたゼミ選考の説明会や面接も含め、あらゆる教務対応の変更を迫られることになった。 こうした環境の変化に適応するには、それなりの気持ちの切り替えが必要になる。だがそれ以上に重要なのは「どうやってオンライン化するか」という手段の部分だ。今回、僕がたまたま学部執行部の職務を担っており、特に新入生の多くに関係する施策を実施したこともあって、教務のオンライン化について様々な知見を得ることができた。できたこともできなかったこともあるし、状況は刻一刻と変化しているのだけれど、一旦の区切りということで、この3ヶ月で行ったことをまとめておきたいと思う。 1.新入生ガイダンス
刺激的、というよりは既視感のある対談だった。ユヴァル・ノア・ハラリとオードリー・タンの対談のことだ。対談の概要は冒頭に湯川鶴章さんがまとめてくれたもので把握できるが、僕らがかつて技術と社会思想の間で考えていたことの変奏であり、また21世紀に論じられてきた問題の最先端の知見が披露されていることがよく分かる。たとえば両者ともに、ローレンス・レッシグの『コード』を前提に話しているが、レッシグの名前はまったく出てこない。いま技術と社会の話をする上での基礎教養の水準がどの程度であるのかも、対談の見どころのひとつだ。 僕の見るところ、この対談でもっとも重要な論点となるのは、「技術は人の意思決定をコントロールするものになるのか、エンパワーするものになるのか」というものだ。ハラリは自らを、技術に対してデータを提供し、技術に「使われる」側に立ち、個人の意思決定のみならず、自己理解、そして民主的な決定までもが
にわかに浮上した「講義のオンライン化」という課題に忙殺され続けた春学期(前期)もそろそろ終りが見えてきた。それに関連して、毎日新聞で受けた取材では大学の講義が、「マルクスについて聞こえる空間にぼんやりと身を置き『そういえば、俺のバイト先でも…』と連想するようなことも含めたものだった」というコメントが採用されている。別にマルクスである必要はなかったのだけど、大学における対面活動の価値の一部に「当初は意味があると思えなかったものに意味を見出す」ということがある、という例として、いわば「資本主義を生き抜くのに役立つ思考」の対極として挙げたのがマルクスだったわけだ。 ただ思わず口走ったレベルの話だったものの、的はずれな例示でもなかったのかもしれないと思ったのは現代ビジネスの記事でマルクスと大学生の話が取り上げられていたからだ。景気の下降期にマルクスが注目される現象は過去にもあったけれど、ここでは資
大学を取り巻く複雑な状況 ここのところの教育関連のトピックで話題なのは「9月入学」だ。この問題についてはサブブランドサイトの4月29日付音声配信で「9月入学論はKPIの定まらない、多様な目標が相乗りしたプロジェクトになって頓挫するだろう」と予想していたのだけれど、果たせるかなその通りになった。もちろん、失われた学習機会の回復や保証、以前からの問題だった教育格差、オンライン授業への対応など、それこそ多様な目標のいずれも重要な論点であって、問題の解決そのものは先送りするべきではないけれど、それらを一気呵成にひとつの策で解決しようとするのには、根本的な無理があるということだろう。 こうした流れを受けて、複数の大学が入試日程を発表している。僕の勤める大学を含めて近畿圏の私大は「例年通りの入試日程」になることを発表している。6月というのは一般的に受験広報がスタートする時期で、関連情報も含め、おそらく
新型コロナウイルスの感染拡大が社会に与えた影響は甚大で、この数ヶ月だけでも、多くの人が生活の変化を余儀なくされ、また先の見通しの立たない状況に置かれている。その多くはネガティブな変化であり、一日も早く「もとの日常」が還ってくることを期待する人は多い。もちろん、そんなことはありえない、私たちは「新しい生活様式」なるものに慣れ、ウイルスと共存していくほかないのだという人もいる。 その一方で、そうしたニューノーマルの中でも、むしろ普及や定着を期待されることもある。それがリモートワークを導入した働き方だ。リモートワークには、従業員のワークライフバランスや業務全体の効率化などのメリットがあるとされており、コロナ・ショックがもたらした数少ない「よい変化」のように思われる。 しかしながら社会学的には、リモートワークがもたらす「望ましさ」には、手放しで肯定できない面もある。というのも社会学は、人々が社会的
音楽業界は実は音楽だけ売ってる訳ではない 今コロナでどこも死にそうになってますがエンタメ業界は特に死にそうな業界の筆頭として残念な意味で話題になってます。要するにライブができないことが致命的なんですが、なんでライブができなくなっただけでみん... きっかけは、このブログに対する教え子からの質問だった。これまで起きていたことは、単純なモノから体験へのシフトなのか。むしろモノが購入されていた時代にも、リスナーは体験を求めてそのモノを購入していたのではないか、というものだ。 こうした点は講義でも著書でも触れてきたことだし、大学のゼミではこの数年、「情報化されないものの価値」について検討を重ねてきた。特に今年重点的に取り上げているテーマが「エンターテイメント」だったこともあり、この問題については少し整理したほうがいいように思う。果たして音楽業界は、「体験の価値」を売るモデルを放棄するべきなのか?
経済活動、社会活動に対する強い抑制(なぜか「自粛」という言葉で語られているが、正しくは「抑制」というべきだ)が働く中、この状況をどうやって、いつ終わらせるかという議論が噴出している。日本でも、特に感染者が多い自治体、つまり出口の見えない自治体の首長が率先して「出口戦略」を語り始め、米国においても民主主義の国らしく、経済活動の再開を求めるデモが起きている。話は「病気による死者と経済による死者を天秤にかけろ」という極端なレベルのものにまで至っているが、多くの人は「こちらが望ましい」という判断がつかず、まして「あなた(の大切な人)は死んでも構わないから私の言うとおりにしろ」と、当事者に面と向かって言うことなんかできないだろう。 社会課題や政策をめぐる議論が錯綜し、どのような視点で判断すればいいかわからないとき、僕たちの多くは混乱する。話の中身に分け入ってひとつひとつ読み解いていっても、どれもそれ
この数週間、世界中の人々の関心は、新たな感染症の拡大と、それに伴う種々の社会的影響に集中している。情報の同期性が強まり、同じ話題をリアルタイムに共有することが可能になった現代では、このような危機的状況での不安や懸念も即座に拡散される。先が見通せない中で、指導者の思い切った決断が必要だとか、もたもたせずに迅速に行動すべきだといった主張も見聞きされるようになった。 そうした中、ユヴァル・ノア・ハラリが日本経済新聞に興味深い論考を寄稿している。その内容は、政治的な決断とリーダーシップを求める声が、国家権力による監視の強化と孤立主義を深めることを憂慮し、市民の知識をアップデートすることや国際的な連帯を強くすることを求めるものだ。つまり「コロナ後の世界」が、独裁的で権威的なものになるか、リベラルでオープンなものになるか、という選択に直面しているというのである。 https://www.nikkei.
卒業生の皆様、このたびはおめでとうございます。 本来であれば「卒業証書授与式」はゼミ単位で執り行うことになっているのですが、今年は卒業に関する様々な行事が中止となりましたので、このような形でお祝いすることになりました。残念な気持ちの方も多いと思いますが、どうぞご容赦ください。 水が変わるということ 「思い出と、友達と、卒業証書以外のものを手にして卒業する」ことが、このゼミの目標だと、ゼミ募集のときから何度も話してきました。今日は最後に、その話をしてみたいと思います。 3年生の夏合宿の際に「水が変わる」という話をしました。デヴィッド・フォスター・ウォレスの『これは水です』というスピーチを引用して、みなさんが、自分を取り巻いている「水」、つまり日々、当たり前だと思って過ごしている環境や考え方の存在を自覚できるようになることが、このゼミの学びにおいてもっとも重要だということを述べたはずです。 若
料理について考えていると、「文化とはなにか」という根本的な問題に突き当たることが多い。 特に昨年、あいちトリエンナーレで見た永田康祐さんの「Translation Zone」という展示を見てからは、そのことについてずっと考えている。この展示、春には東京でも見られるらしいので、そのときはぜひ行きたいなと思ってるんだけど。 展示の内容を振り返ると、「言語を翻訳する」という出来事と、「料理を翻訳する」という出来事の相同性を指摘しつつ、その翻訳の形態に3種類あって、それぞれが独自の文化的様相を示すというものだったように記憶している。 ひとつは、「似たようなものを無理やりくっつける」というタイプの翻訳。Google翻訳のシステムがこれにあたる。たとえば「パッタイ」を「タイ風焼きそば」と翻訳したり、「ナシゴレン」を「炒飯」と同じ料理だとみなしたりする、というものだ。 このタイプの翻訳には、異文化を結び
衝撃の読書体験! SNS、ネットで話題沸騰!!2019年 第17回 開高健ノンフィクション賞受賞作「2020年Yahoo!ニュース|本屋大賞 ノンフィクション本大賞」「第19回 新潮ドキュメント賞」「第42回 講談社 本田靖春ノンフィクショ... 昨年末から話題になっていた『聖なるズー』。本書は「ズーファイル」、つまり動物性愛者たちへの聞き取り調査をもとに、彼らの生きている世界や価値観について迫った本だ。著者はライターでもあり、京都大学で文化人類学を学ぶ大学院生でもある。この本も、大学院での研究をもとに執筆された修士論文を書籍化したものだ。 一般的に動物性愛者というと、獣姦、つまり動物を相手にセックスする人たちのことをイメージしがちだ。しかしながら本書に登場する、主としてドイツのズーファイルたちは、動物を人間と対等なパートナーとみなしており、その動物たちを妻と呼ぶこともある。むろん、人間同
毎年恒例にしている、年末の音楽振り返りエントリ。この数年のライブ中心の環境から、どちらかというとサブスクリプションに依存する形で、今年は本当に幅広く音楽を聴いた。それだけでなく、エンターテイメントというものが求められる環境の変化や、自分の感覚をアップデートする必要性に迫られたのも、今年の特徴かなと思う。 全般的な感想 昨年あたりから気づいていたことではあるのだけれど、「サブスクリプションがリスナーの裾野を広げることの功罪」が、感覚として共有されてきたという気がする。功というのは、これまで一枚のCDにお金を出す余裕のなかった人のところにまで楽曲が届くようになったこと。そして罪とは、まったく興味のない人のところに聴き捨てられるためだけに届けられる音楽が増えたことだ。 もともと「No Music, No Life」な人なんて一握りで、大半の人は産業流通するコンテンツとしてポップミュージックを聴い
12月2日から、新刊『誰もが時間を買っている』が発売になります。 教育という仕事に携わるようになってから初めての、ゼミでの研究を書籍化した本になります。社会学的な考察や来たるべき社会の理念というよりは、直近のビジネストレンドにフォーカスした内容になっています。 以下に、本書の冒頭の部分をご紹介します。 理解されていない「時間と消費」の関係 「要点を短くまとめて、結論から話す」 「会議の時間はできる限り短縮する」 こうした話を聞くことが増えました。いずれもビジネスの世界の話です。 確かに、面白くもない話をだらだらと聞かされるのは時間のムダでしょう。「働き方改革」が叫ばれる中、生産性の低い時間を減らしていくことは、どんな企業においても急務であるように思います。 では、こういう風に言われたらどうでしょう。 「夫婦の会話は、結論からまとめて要件のみにとどめなければいけない」 「デートの時間は限りな
ものごとを固定的に捉えるのではなく、流動的で、変化するものと捉えるのが社会学の特徴だと思うけれど、その中でもジンメルの考え方はとても独特だ。「橋と扉」といったモチーフに見られるように、区別されたものが同時につながるとか、つながっているのに一緒にはなれないとか、そういう曖昧な関係性が、彼の描く社会観の根底にはある。 またその間をつなぐものに、貨幣に代表されるような匿名性の高いものが多いのもユニークな点だ。互いが互いと関係していることを示すものが、親密性のような愛のコードではなく、市場、消費、貨幣といった市民社会のコードであるのは、後のハーバーマスの議論を大きく先取りしている。ヘーゲルからマルクスを経て近代市民社会論の多くが、資本主義による関係性を近代の必要悪とみなし、資本主義から独立した市民倫理を打ち立てようとするのに対して、や、人ってそもそも資本制の中で関わり合うしかないでしょ、というジン
Photo by Priscilla Du Preez on Unsplash 未来を予測するのは困難なことだ。だが人生は未来にしか続いていかず、改善は未来においてしかなし得ない。そのため僕たちは、手元の限られた材料から未来を予測し、そこから逆算して現在の行動を決定する。それは僕たちの普遍的な振る舞い方だと思うけれど、学術と実業の2つの領域に足をかけている立場からは、両者の未来予測には質的に異なる部分があることをまま感じる。学者、特に社会科学者が、できる限り確からしい情報を集め、それらを根拠に論理的に導ける、すなわち科学者ならば誰もが同じ結論に至るであろうことを述べるのに対して、実業の世界では、競合に対する競争力を発揮するために、自分しか思いつかないこと、手元の材料では言い切れないことの方に軸足を置いた予測をしがちだ。実業者に見られるこうした「暗闇への跳躍」は、イノベーションの源泉だと考え
抱えた仕事が整理できない、と感じるようになったのは20代の後半だった。25歳で物書きの仕事をいただくようになり、本を出版してからは講演や学会への招待といった「替えのきかない仕事」も増えた。それぞれの分野で同じような仕事をしている先輩もほとんどおらず、まして、自分と同じようなレンジで仕事の手を広げている人に会うことなどなかった。必然的に、自分の仕事をどのようにマネージするかについて日々考える場面が増えた。 このブログでも、何度かそうしたことについて触れてきた(古いところでは7年前の記事)。とりわけこの数年は組織の副所長、所長といった仕事を引き受けることになったために、よくネットの記事なんかで上がってくるタスク管理術というよりも、いわゆるマネージャーとしての管理術に関心を持つようになっていった(たとえばこちらの記事)。当たり前のキャリアなんてなかった僕らの世代だけど、標準的にはマネジメントに移
調子に乗りやすいタイプだという自覚はある。研究はどちらかと言えばストイックな営みだから、現在の自分にも環境にも満足せず、ついついシニカルになったり、自分の情動にブレーキをかけたりするタイプの人が多いように思うけれど、僕の場合は納得のいかない環境を力ずくでも変えてやろうと感情的になることが多い。たいていの場合はポジティブな方向に感情的だけれど、大教室授業で騒がしい学生を叱責したときなんかは、「こんなことで状況がよくなるわけないのに」という後悔と、感情的になった反動で、しばらく動けなくなるくらいに疲れてしまう。 昨年から今年にかけて、いくつもの仕事が立て続けにうまくいかなくなり、自分が原因でないことも含めて、ずっと心を痛めていたように思う。「傷ついた人たち」について考えていたのも、そんな自分の状況が反映されたものだった。そういうときには自分が何をしても裏目に出るように感じてしまうし、目の前で起
PWA(プログレッシブウェブアプリ)とは、ネイティブアプリのようにホーム画面にアイコンを追加して利用するウェブサイトのことで、このGlideは、Googleスプレッドシートのデータをスマホアプリのようにインターフェイス化してくれるサービス。まだローンチしたばかりのようだけれど、あまりにも使い勝手がよすぎて、今週だけで3つくらいアプリを作ってしまった。 そのうちのひとつが、研究室の蔵書をリスト化して、ゼミ生用のライブラリとして利用できるようにするというもの。以前から研究室の図書を学生が借りられるようにしていたのだけれど、そのシステムの最新版という位置づけ。 開発にあたっての要件は以下の通り。 図書の登録作業が簡便に行えること。具体的にはバーコードリーダーでISBNを読み取ったら、基本的な書誌情報は自動で取得できること。ひとつのレコードに対して複数の経路から到達できること。具体的には、「研究室
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