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「鍵善良房」の水ようかん「甘露竹(かんろたけ)」。 青竹にようかんを流し込んだこのお菓子は、京都の夏の風物詩として知られている。今となっては、京都のみならず、いろんな店がこのスタイルで水ようかんを販売しているが、「鍵善良房」が始めたのは昭和初期。京都の中でもかなり早かったと聞いている。 青竹を蓋しているのは、一枚の笹の葉。シュルっと笹の葉をほどくと、青い香りが鼻をくすぐる。錐(きり)で底の節に穴を開けて、そっと振るとようかんがすべり出てくる。 「甘露竹」の販売期間中は、本店喫茶室でおうす(抹茶)と一緒にいただくこともできる。 つるん、と寒天が口に入るところまでは覚えているのだが、そこからが早い。みずみずしく口の中でほどけて、すっと消える。あんのやわらかな甘みが、わずかに舌の上に残るのみ。 この”はかなさ”を何にたとえよう…と思ったら、それこそが菓銘「甘露竹」なのだと腑に落ちる。笹の葉に浮か
この記事をご覧になっている方の中には、美術館や博物館などに行った際、古代中国の青銅器を目にしたことがある方も多いと思います。謎めいて神秘的なこれらの青銅器は、今から約三千年前、殷周時代に生み出され、国や時代を超えて多くの人を魅了してきました。 そんな魅力的な中国古代の青銅器ですが、一見、何に使っていたのか想像もつかず、文様なども奇想天外であるため、どうやって鑑賞すればいいか分からない、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。 今回は、世界でも屈指の青銅器のコレクションを所持する泉屋博古館の学芸員、山本堯(やまもとたかし)さんに、青銅器とは何かというところからその奥深さまで、広く語っていただきました。 ※美術品として特に評価が高いのは殷周時代の青銅器で、泉屋博古館には殷周青銅器のほか、後の時代の青銅器も所属されています。なお、この記事で「青銅器」という場合、殷周とその周辺の時代の青銅器を
暗闇で「暗くてお靴が分からないわ」と履き物を探す女性に第一次世界大戦後に造船業で成功した恰幅の良い実業家(船成金)が火をつけた百円札をかざし「どうだ明るくなったろう」というセリフの描かれたインパクト絶大な風刺画。歴史の教科書で見たことがある!という人も多いのでは?この風刺画を書いたのが和田邦坊(わだくにぼう)なのです。この作品は発表して90年以上もたちますが今でも様々なメディアで取り上げられ、令和になった今でもSNSでバズったりもしているのです。邦坊とはいったいどんな人だったのでしょうか? 和田邦坊「成金栄華時代」※全ての作品画像提供:灸まん美術館和田邦坊画業館 小説家、商業プロデューサー、画家とマルチな活躍 和田邦坊は香川県出身(1899~1992年)で時事漫画家、小説家、商業プロデューサー、讃岐民芸館館長、デザイナー、画家として活躍しました。 和田邦坊 1929年(昭和4年)に東京日日
藤子不二雄Ⓐの『まんが道』。 1970年に『週刊少年チャンピオン』に連載された「あすなろ編」にはじまり、2013年に続編『愛…しりそめし頃に…』が完結するまで43年にわたって描かれた半自伝的作品。 フィクションの要素が多いながらも、藤子不二雄(ふじこふじお)両名をモデルとした満賀道雄(まがみちお)と才野茂(さいのしげる)の歩む青春が、戦後草創期のマンガと共に描かれていく。マンガ家ならずとも、なにかの志を持って上京した人には欠かせない、生涯何度も読み返す作品だろう。 誰もが成功するわけじゃない『まんが道』 でも『まんが道』は単なる成功の物語ではない。今なお伝説として語られるトキワ荘に集う若きマンガ家たち。 彼らのすべてが成功したとは言い難い。 例え成功しなくても……創作に人生を賭ける者は絶えない 中でも読み進めるうち次第に気になってくるのが、同じくマンガ家を志していた森安なおやである。 藤子
もし「東京の城といえば?」と問われたら、何と答えますか? たいていの人は「江戸城」と答えるでしょう。現在の皇居を含む、日本最大の城跡です。「では、江戸城以外では?」と重ねて問われたら、どうでしょう。「他にもあるの?」というリアクションをする人が多いかもしれません。そもそも世界有数の大都市東京と、昔の城跡のイメージは結びつきにくいものです。しかし実際のところ東京には、23区内に約100、多摩地域を含めた東京都全体では約200もの中世の城がありました。ちょっと驚きませんか? たとえば八王子市の滝山城や八王子城、町田市の沢山(さわやま)城など、多摩地域には当時の姿をよく留める山城や丘城の跡がいくつもありますし、23区内でも世田谷区の世田谷城や、練馬区の石神井(しゃくじい)城などは、土塁や堀などが比較的わかりやすいかたちで現存しています。 さて、それら都内の城の中で、戦国時代に山内上杉(やまのうち
みなさんは「武士」と聞いたら、いつの時代を思い浮かべますか? 鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代か……意見が分かれそうですね。武士はそれだけ長い間、日本の支配階級として権力を持ちつづけていました。 武士スタント逢坂くん!(1) (ビッグコミックス) 武士の起源はどこにある? 平安後期に、武士はそれまでの支配階級だった貴族に代わって実権を持つようになりました。やがて鎌倉幕府が誕生し、武士は日本社会の中心的存在となっていきます。 もちろん、彼らはある日ひょっこり誕生したわけではありません。平安時代に台頭した武士の起源は諸説あり、以下のように言われています。 貴族に支配される都に対し、地方では有力な農民が豪族として力をつけ、彼らが自衛のために武装するようになった。 もともと都には、武芸を生業(なりわい)とする家系に生まれ、武の専門職(武官)として朝廷や貴族に仕える下級貴族たちがいた。 問題の
「日本語研究を大成した人は誰ですか」 「本居宣長」 本居宣長の功績は歴史や国語の教科書にも記されている。多くの人々はそう答えるかもしれない。 日本にキリスト教をもたらしたイエズス会もまた日本語研究に多大な貢献を果たしていたことはご存知だろうか。 驚くべきことに、外国出身でありながらイエズス会の宣教師が成し遂げた功績は、天才国学者として讃(たた)えられた本居宣長を凌駕するものであったのだ。 イエズス会の宣教師は日本文化の翻訳者だ イエズス会の宣教師は、キリスト教の伝道師のみならず、いわゆる日本文化の翻訳者でもあった。 イエズス会は活版印刷技術の黎明期に、実に多くの日本語研究書や教義書を総集成し、天草や加津佐(かづさ)の地にてポルトガル式ローマ字本や国字本を刊行。宣教師たちは『平家物語』や『伊曾保物語(いそほものがたり)』、『金句集(きんくしゅう)』を日本語教材にするために、室町時代の話し言葉
最近、何気なくtwitterを見たら、トピックスに有名タレントの訃報を伝えるニュースがあってびっくり、ということがあります。 「最新ニュースの情報源って、SNSが発達する以前は何だったんだろう? テレビ、ラジオ? 新聞? その前は……?」と遡っていったところ、江戸時代には「瓦版(かわらばん)」というメディアがありました。瓦版とは、地震・火事から仇討(あだうち)・心中事件といったワイドショー的なネタを記事にして街頭で売り歩いた印刷物のこと。これとは別に、「死絵(しにえ)」と呼ばれる訃報を伝える錦絵もあったとか。 そこで、この記事では「死絵」を取り上げ、どのようなものだったのかを紹介します。 そもそも、「死絵」とは? 「死絵」とは、歌舞伎役者など、人気のある人が亡くなった時に訃報と追善を兼ねて作られた錦絵のこと。江戸中期から明治後期にかけて出版されました。 その特徴は、役者の似顔絵に亡くなった
はじめに 明治時代には、米欧列強のアジア進出のことを「西力東漸」(セイリキトウゼン)と呼びました。インドのムガール帝国がイギリスの侵すところとなり、その東にあるビルマもまた独立の実態を失い、インドシナ半島は仏領に組み込まれ、北からはロシアがシベリアを呑み込んで沿海州まで手を伸ばすに至りました。 世界の東の果てと呼ばれた日本とて、幕末には「西力」が及びはじめ、このままではイケナイと明治維新を迎えたのでした。この場合、朝鮮国や清国とは仲良くして、列強に対抗した方が良いに決まってるんですが、なかなかそうは行きませんでした。 イギリスやフランスはアフリカの喜望峰を経由してインド洋を横断し、マラッカ海峡を経て西太平洋に出ます。西洋の軍隊は物凄く強いけれども、数は多くないのであります。だから、極東の三つの国が連盟したら、見通しは明るいハズですけれども、実際には戦争するほどこじれてしまいました。どうして
はじめに 明治元年3月、まだ江戸開城交渉が妥結していなかったとき、明治天皇は 「広く会議を興し、万機公論に決すべし」 と、天地神明に誓いました。このとき撒いた種が芽生え、育ち、花開き、実を結ぶまで20年以上をかけて数々の段階を踏んできました。 それが現実のものとなったのが、明治憲法の制定と国会の開設です。 多くの血と涙を流しながら歩んできた20年余の足取りを、たどってみましょう。 やっと「公議」が実現したけれど まず明治新政府は明治元年閏4月21日(1868年6月11日)に政体書を公布、「天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス」ことを宣言しました。今後は政令すべて太政官(ダジョウカン)から発せられるということです。そして、太政官制の下で立法、行政、司法の三権を分立すべきことを政体書に盛り込んでいました。このとき江戸開城で戊辰戦争は終結すると期待していたんじゃないかと思われますけれど、東北・北越戦
明治23(1890)年9月16日夜半、トルコ軍艦エルトゥールル号(以後「エ号」と称する)が和歌山県沖で座礁・沈没した事件は、死者が500名を超える(生存者69名)という大惨事となりました。このとき献身的に救助にあたった当時の大島村(現串本町)の住民の行動を始めとする日本側の対応は、その後のイラン・イラク戦争における救援機の派出というトルコ政府の恩返しともいえる美談とともに日本・トルコの友好の証となっています。 参考:日本とトルコの絆をつないだ物語|串本町 生存者69名は、軍艦「比叡」と「金剛」によって本国に送還されますが、それは少尉候補生の遠洋練習航海を兼ねてのトルコへの航海でした。その派遣の決定からトルコへの航海について、あまり知られていないことを紹介したいと思います。 エルトゥールル号 『土耳其國軍艦エルトグルル號』駐日土耳其國大使館(海外印刷所 昭和20年刊行)国会図書館デジタルコレ
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