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大江健三郎は追悼文をよく書く人でもあった。しかしここ数年は当然書くべき人について書かないばかりか、コメントすらないという状況であったので、体調については想像がついた。年齢を考えても遠からぬうちにこの日が訪れることになるだろうと覚悟はできていたのだが、実際にその訃報に接すると、これからは大江健三郎のいない世界を生きていかねばならないのだという気分にさせられる。 作家に対する何よりの追悼はその作品を読むことであろう。まだ大江の作品に触れたことがないという人に一冊勧めるとしたら、ベタではあるがやはり『万延元年のフットボール』を挙げたい。 一方で、いたずらにハードルを上げるのはよくないのだが、二、三作読んだくらいで大江という小説家をわかったつもりになられては困ると言いたくなる衝動もある。大江は若き日の作品から最後の作品となった『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』まで、「獰猛」とでもしか言い表しよ
坂本邦夫著 『紀元2600年の満州リーグ 帝国日本とプロ野球』 その1の続き。 1929年、日本初のプロ野球の試みであった「日本運動協会」は挫折に終わった。といっても野球人気が下火になったのではなかった。それどころか「協会の解散当時は六大学野球の絶頂期だった」。 各地に様々な目的を持って企業チームが作られていた。また六大学人気は映画を食ってしまうほどで、「不入りに喘ぐ映画館では、観客へのサービスで早慶戦の試合経過を伝えていたという」。ならばということなのか、牧野省三が創設したマキノ・プロダクションは孫孝俊に、「俳優をしながらマキノの野球チームでプレーしないか」と声をかけた。 孫孝俊は李吉用に宛てて「突然マキノ・プロに入社してすでに二つの映画を撮影中です」と手紙を書いた。この「李吉用は、一九三六年、ベルリン五輪のマラソン競技で優勝した孫基禎の表彰式の写真から胸の日の丸を消した東亜日報の「日
ジョン・ロールズは1921年生まれなので今年は生誕100年にあたる(また2002年に死去しているので来年は没後20年でもある)。ロールズの『正義論』は現在でも政治哲学の最重要本の一つであるだけに手軽に手に取れる新書の入門書あたりが出て欲しいのだが、企画はあるのだろうか。 これを講談社学術文庫に入れてくれるのでもいいのだけど(というか「現代思想の冒険者たち」全部入れちゃってほしい)。 ということでというのではないが、数年前に購入したまま本棚の肥しになっていたThomas PoggeのJohn Rawls His life and theory of justiceを手にしてみた。この本は「ロールズの理論が非専門家にも理解される一助になれば」としてあるように、ロールズ小伝と『正義論』及びその後の議論についての入門書であり、平易でわかりやすいものであった……としたいところだが、僕の英語力を差し
「私がこんな正論ばかり述べているというのは、どこか世の中がおかしくなっているんじゃないか(笑)」 これは東大総長退任後の蓮實重彦に2001年5月から2002年4月にかけて行われたインタビューをまとめた『「知」的放蕩論序説』にある蓮實の言葉であるが、つまりは、蓮實は本来なら「正論ばかり」を述べるような人ではない、もっといえば挑発的な放言さえ好んで行うような人物である。しかし「世の中がおかしくなっ」たために、このような蓮實でさえ「正論ばかり」を述べねばならなくなったのであろう。 東大総長という地位がそうさせたということもあろうが、人文系の教授としては異例の、しかもあの蓮實が、東大総長になろうとしたというところにすでに危機感が表れていたとすることもできるであろうし、約二十年後に当時の蓮實の言葉を読むと、その危機感が日本社会に、とりわけ東大出身の「エリート」とされる人々に共有されておらず、それが現
4月11日現在、日本で確認されている新型コロナウィルスの感染者はあくまで氷山の一角にすぎないのは確実だが、一方ですでに数十万人規模で感染が広がっているとすればごまかしようもないのであろうから、現時点ではそこまでは感染は拡大していないといったあたりなのだろう。 深刻なのは、では日本でいったいどれほど感染が広がっているのかを、科学的根拠をもって推計することさえできないことだ。一万に近い数万なのか、十万に近い数万なのか、それ以下なのか以上なのか、ただ勘に頼るほかないのである。 日本政府の対応はOECD諸国の中では最低レベルと言い切って構わないであろうが、にも関わらず謎の理由によって日本での感染拡大のスピードは遅いのも間違いないだろう。そして日本政府は、この状況を活かすどころか、わざわざドブに捨て続けている。 布マスクを1世帯に2枚配布するという愚策に顕著なように、安倍政権の対応は単に動きが鈍いと
『グラウンド・ゼロを書く 日本文学と原爆』(ジョン・W・トリート著)の原著の刊行は1995年のことなので、むろん著者にその意図があったわけではないが、いわゆる「ネトウヨ」的なものの源流などについて考えさせられる部分があった。 1966年発表の井伏鱒二の『黒い雨』は高く評価され広く読み継がれることになるがその刊行後、、意外にも山本健吉や江藤淳といった保守派からも絶賛された。 現在では『黒い雨』は原爆の悲惨を語り継ぐ「戦後民主主義」的な作品として受けとめている人が多いであろう。それをなぜ保守派が絶賛したのだろうか。その理由は山本の「地についた平常人」の次の箇所を読むとよくわかる。 「[他の原爆文学の作品は]あまりにハードボイルドに書かれ過ぎた。あまりに政治の手に汚され過ぎた。あまりに安易な符牒で呼ばれ過ぎた。井伏さんがこれを書いてくれなかったら、私は日本人として、何時までもやりきれない思いを
『柄谷行人浅田彰全対話』 一九八七年から九八年にかけて行われた柄谷行人と浅田彰の六つの対話が収録されている。なおこの二人は座談会などを含めるとこれ以外にも膨大な「対話」を残しているので「全」とつけてしまうのは誤解を招くタイトルであろう(多分『柄谷行人蓮實重彦全対話』に合わせたのだろうけど)。 例によって挑発的というか放言めいているところも多数あるので、そのあたりは割り引いてというか慎重に受け止めねばならないのであるが、時事的な要素を多く含んだ対談というのは時間がある程度経過すると読めたものではなくなるのがほとんどだが、今読んでもというだけでなく今読むことで、新たに見えてくるところがあるというのはさすがとすべきだ。 本書収録のなかで一番有名なのが、一九八九年に行われた「昭和精神史を検証する」を改題した「昭和の終焉に」の冒頭の浅田のこの言葉だろう。 「実をいうと、僕は昭和について語りたいとはま
一九七三年八月、ハンナ・アーレントはメアリー・マッカーシーに宛ててこんな手紙を書いた。 「私の印象では、ニクソンはこのウォーターゲートから本当に国家の救済者を装った勝利者として現れそうな気がします。悪いのは彼ではなく、ホワイトハウスでもなく、議会だというわけです。今彼のスピーチの抜粋と反応に対するコメントのいくつかを読んだら、私は自信を深めました。ニクソンは再び防戦にまわり、具体的にはなにも答えず――もちろん答えられるわけがありません――全体として恐れているかのように思われます。ただここでも、彼を支持するのはわずか三一パーセント(?)にすぎないのに、彼を弾劾したいと思っている人は一人もいないという主要な事実は残ります。言いかえると、政治の過程にこれほど大規模な犯罪が侵入してもだれも気にとめないということです。あるいはこちらのほうがもっとありそうなことですが、人々はこれに対して本当に何かをし
来年から導入される予定であった「大学入学共通テスト」においての英語の民間試験の活用はとりあえずは延期ということになった。中止ではなくあくまで「延期」であり、一安心とはとてもいえないが、最低限のハードルを越えることはできた。 僕は受験生ではないし、教員でも受験産業の一員でもなく、親族が、あるいは親しい友人の子どもが近いうちに大学受験をする予定もない。ではなぜ僕がこの問題にこだわりを持つのかといえば、日本社会の現状を象徴するものであるように思えるからだ。 「劣化」という言葉自体が好きではないが、これがましてやエリートの、政治の、官僚の劣化という使われ方をされるのには要注意である。「劣化」ということは元は優れていたものが衰えたということになる。日本のエリートは、政治は、官僚は、かつてほんとうにそれほど優れていたのだろうか。悪しき点が可視化されただけなのではないか。いたずらにノスタルジーをかきたて
小澤俊夫著 『ときを紡ぐ 昔話をもとめて』 昔話の研究者としても知られるドイツ文学者、小澤俊夫による自伝的回想。「この本は、季刊誌『子どもと昔話』に連載中の「糸つむぎ」のうち、回想的な部分をまとめたもの」である。 1994年に俊夫は食道癌と診断された。「ウィーンで働いている長男淳にも伝えた。東京で忙しく音楽活動をしている次男健二にも伝えた。ぼくの弟たちにも伝えた」。 言うまでもなくこの「次男健二」とはあの小沢健二のことである。手術当日、「妻が早く来てくれたが、健二はなかなか現れない。そのうちに電話があり、「寝坊した。今から行く」という。タクシーで駆けつけたそうで、ぼくが病室から運び出される直前に到着した。ぼくは、車つきのベッドで手術室へ運ばれ、入り口で妻と健二と握手して別れた。ぼくは戻れるのだろうか、とそのとき思った」。 俊夫が不安にかられたように、軽いものではなく手術は六時間に及ぶもの
江利川春雄著 『日本の外国語教育政策史』 「全国小学校に英語科を新設 だが――先生からが英語を知らず といって英語教師を雇えば金が要る!」 こんな見出しを目にしたら、いったいいつの新聞記事だと思うだろうか。答えは1884(明治17)年でなのである。注に「ただし見出しは『新聞集成明治編年史』による」とあるので後につけられたものなのであろうが、記事の内容も現在の状況を彷彿とさせる。 文部省は「全国小学教科中へ英語科を加え得べき旨」の布達を出したが、「従来の小学教員は大概英語科を修めざる者」で、「別に其の教員を雇入れざる得」ないのであるが、「経済上不都合」である。そこで横浜商法学校の夜学科で「小学教員に限り、無月謝にて英語科の享受することなせり」ということがあったようだ。 実情をふまえない「改革」を安易に行う一方で教育にカネは使いたくないのであとは現場の教師に丸投げするというのは、現在に至る
水島治郎著 『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』 第1章で「ポピュリズムとは何か」が概観され、2章以降で南北アメリカとヨーロッパを中心に具体的な事例が比較検討されている。わかりやすくコンパクトにまとめつつ、粗雑な議論にも陥らず、このテーマの格好の入門書となっている。 ツヴェタン・トドロフは「ポピュリズムとは伝統的な右派や左派に分類できるものではなく、むしろ「下」に属する運動である」としているという。「既成政党は右も左もひっくるめて「上」の存在であり、「上」のエリートたちを下から批判するのがポピュリズムだ、というのである」。 ポピュリズムとはいったい何を指すのかについては論者によってまちまちで、政治学者の間でもその概念についてコンセンサスが得られているとは言えないが、この捉え方はポピュリズムのかなりの部分を説明してくれるであろう。「左」と「右」のポピュリズムは同根の現象な
オーウェン・ジョーンズ著 『チャヴ 弱者を敵視する社会』 ジョーンズはある日、不安にかられる体験をした。ロンドンの高級住宅地にある友人宅での夕食会でのこと、招待主が大手スーパーマケットの閉店に触れ、「チャヴたちは、いったいどこでクリスマスプレゼントを買うんだろう」というジョークを飛ばしたのだ。 発言主を含め、そこにいたのは「教養があり、心が広く、知的な専門職について」おり、「人種もさまざま、性別も男女半々、同性愛者もいた」。全員が政治的には中道左派であり、もしそこで人種差別や同性愛差別発言をしようものなら「すみやかに部屋から追い出されていただろう」。でも、「チャヴ」を馬鹿にした「ジョークに不快感を示した人はいなかった。それどころか、みな笑ったのだ」。 「チャヴ」という語は「ロマ族のことばで「子供」を指す「チャヴィ」から来ている」が、そのことを知る人は少ないようだ。しかしチャヴに対するイ
河野真太郎著 『戦う姫、働く少女』 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の冒頭、スター・デストロイヤーの残骸で部品集めをしているレイの姿を見て、『風の谷のナウシカ』の「冒頭を想起したのは私だけではないはずだ」。「腐海という巨大な菌糸類で探検するナウシカ」とレイのマスク姿、「そしてナウシカのライフル銃とレイの棍棒」、図版にあるように類似は明らかであり、J・J・エイブラムスの宮崎駿をリスペクトしているという発言からしても、これは意識的なものであろう。 そして「二人の類似性はこの見た目にとどまらない。二人とも、主人公級の脇役男性キャラクターとの対照で、その戦闘力が強調される」。 「重要なのは、それではこの類似性はいかなる歴史性から、いかなる社会の変化から生じてきたのか、という問題である」。 スター・ウォーズ・サーガだけをとっても、社会の変化は強く反映されている。旧三部作のレイア姫は「おとなしく騎
ドニ・ベルトレ著 『ポール・ヴァレリー』 こちらに書いたように、モーリス・ブランショの『問われる知識人』でポール・ヴァレリーとドレフュス事件との関わりが扱われていたので、この大部の伝記からそれと関連するところを中心に。 まず訂正からだが、ドレフュス事件後に陸軍省に勤務するようになるかのように書いてしまったのだが、これは時系列を取り違えていて、実際にはヴァレリーはドレフュス事件時にすでに陸軍省に勤務中であった。ベルトレによれば、当時陸軍省内では様々な陰謀論が出回っており、ヴァレリーが反ドレフュス側についたのにはその影響もあったようだ。 ヴァレリー家はもともと保守的であり、また陸軍省の仕事を紹介したユイスマンスも反ドレフュス派となったように、彼の周辺人物の多くも保守的であった。ヴァレリーはこのような政治的雰囲気に疑問を感じるどころか適応していたとしていいだろう。またベルトレが何度も強調するよう
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