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夏の料理
storys.jp
PS2の発売日は2000年3月4日だった。2000年年明け前後だったろうか、エミュレータはほとんど完成していた。だが、それでもまだ一部動きがおかしくなるタイトルがあった。数タイトルがどうしてもちゃんと動かない。最終的に僕らはそれらをブラックリストとして公表しリリースすることとなった。 その後、アメリカ、ヨーロッパでもPS2が発売された。もちろん海外のPS1タイトルも動く。発売直前にはアメリカ、ヨーロッパを回ってデバッグもした。それが初めての海外だった。
僕達が作ろうとしていたSPUエミュレータは不要のものとなってしまった。しかし、PS2のサウンドプロセッサがなくなるわけではない。先輩と「これからの仕事は何になるんですかね?」「新しいチップのテストベクタでも作るんですかね?」などと話ながら帰ってきた僕に告げられた次の仕事は予想外のものだった。 「え?」という感じだった。GPUエミュレータは別の先輩が担当していた。聞けば、その先輩は会社をお辞めになるというのでその引き継ぎをしろということだった。GPUはグラフィックのプロセッサだ。サウンドからグラフィックへの大転換である。しかし、僕に選択肢などあるわけないのでわけも分からぬまま引き受ける。 僕にとってエミュレータは一種のコンバータだ。古いプロセッサ用の命令を新しいプロセッサ用の命令に変換するのがメインのお仕事だ。実際のところ、サウンドだろうがグラフィックだろうが、変換後の命令の動きが違うだけで
僕が次世代PlayStation(PS2)のチームに配属されて言い渡された仕事は現行PlayStation(PS1)のゲームをPS2の上でも動かすというものだった。 その頃は新しいゲーム機が出ると古いゲーム機のゲームはその上では動かないというのが普通だった。そんな中SCEではPS2でPS1のゲームも動かしちゃおうというのだ。それはとても画期的なことだと思った。そして、入社して数年目にそんな仕事に関われることがとても嬉しかった。
・「とりあえず会社作ろうぜ。社名はスダックスでいいじゃん」でアエリア会長、社長と3人で100万ずつ出し合って、2ヶ月後有限会社スダックス設立
【第1話】1.4tの砂利を積んだ2tトラックのハンドルを握る。 2008年1月 東京では新幹線のぞみの喫煙車両廃止に続いて、タクシーでも全国で全面禁煙が実施され、愛煙家には一段と肩身の狭い時代に入りつつあった。この頃、当時の僕と言えば、今では信じられないくらいの超が付くヘビースモーカー。そんな世間の風潮など、どこ吹く風とばかりに、ポケットの数だけタバコを洋服に詰め込んで、禁煙ブームなど我関せずといった態度で、盛大にタバコをふかしながら毎日、忙しく仕事をしていた。 「え、オンデーズの増資を田中社長が、自分個人で引き受けるって言うんですか?」 六本木の交差点にある有名な喫茶店「アマンド」の2階の窓際の席で、奥野さんは「まるで信じられない」という顔で目を丸くしながら、目の前でタバコをふかしながら話す僕を見て飛び上がるようにして驚いた。 「そう。結局、誰に話しても反対ばかりされるし、否定もされるし
社会に出てからのこの約20年、一体ボクは何をしてきたのだろう? 「誰かを幸せに出来たか?」 「誰かの役に立つことが出来たか?」 「自分がこの世に生まれてきた証をなにかひとつでも残せたか?」 平成25年7月10日、ボクの親父は睡眠薬を飲み川に飛び込んで自殺した 63才で、自分の人生を終わらせる決断をしたのだった 死ぬ前に、母親の携帯に電話があったそうだが、母親は冗談だと思い、取り合おうとはしなかった 父親と母親は、ボクが17才のときに離婚している 離婚してからも、ときどき二人は合っていたらしく、子供達が自立してからは、お互いの家を行き来していたらしい 東日本大震災のときは、一週間連絡が取れず心配したが、結局2人避難所で寄り添っていた ボクが小さい頃、親父と母親で飲食店を経営していたが、ボクが8才のときに経営が苦しくなり店を閉めて借金だけが残った それからというものの、昼ドラにありがちな、親父
「上京」 19才になった僕は故郷を捨て、彼女を連れて、横浜の地下鉄弘明寺駅のホームに降り立った 滴り落ちる汗を拭いながら、僕らはこれから始まる新生活を想像していた 給料がよくて住み込みで働けるところ 求人雑誌を買ってきては、仕事の内容もろくに見ないで、片っ端から電話をかけて履歴書を送った 仲間とつるんで悪さばかりしていた僕は、なんとなく時間ばかりが過ぎて、このまま小さくまとまってしまうことが怖くて、彼女を連れて逃げるように田舎を飛び出した 住み込みで働けるところが決まり、金も頼れるような人も何もなかったが、2人で始める新しい生活に不安はなく、若い僕らは希望に満ちあふれていた どこか僕らは似ていて、彼女も今の現実から連れ出してくれる人を待っていたのかもしれない そして、2人とも両親が離婚していて、何か普通の家庭に憧れがあったような気がする いつも僕らは何をするときも一緒で、お互いがお互いを必
こんにちは。 美容室経営をしている北原といいます。 僕は小学生の頃からずっと落ちこぼれで、友達は一人もおらず、学校の勉強にもついていけませんでした。 そんな僕は社会人になっても落ちこぼれつづけ、先の見えない将来に強い不安を感じていました。 ところが、たった1つの魔法の習慣で人生がガラリと変わり、3年で当時働いていたお店の店長に就任するまでになりました。 ここでは、その時の話をお伝えさせていただこうと思います。 何かに行き詰ったり、将来に漠然とした不安を抱えたりしている人たちの力になれれば幸いです。 学生時代の僕は 絵に描いたような落ちこぼれだった ・成績は下の下 ・友達ゼロ ・コミュ障 ・ネクラ 父親の都合で小学生から転校を繰り返し、「どうせすぐ転校するから」と友達をつくらず、勉強もついていけなくなっていた。 「どうでもいい」 当時の僕の口癖だった。そして、自分の殻に閉じこもっていった。
僕がSCEに入社したのは1996年。新卒社員の2期生としてだった。その頃のSCE開発部は50人くらいだったかな?久夛良木さんが部長で一番下っ端が僕達だ。 僕が入社した頃はちょうどスクウェアがPS陣営に参加表明した直後くらいだったと思う。発売前後のFF7のムービーを見せてもらう機会があったんだけど、エアリスが…のシーンを見させられて衝撃だったのを覚えている。
その場は華麗にスルーした。しかし、帰りの駅の改札で再びそのスカウトと鉢合わせた。どうしたもんかと思いながら、帰る方向も同じだったので、不本意ながら一緒に帰ることになった。 というそのスカウトのしつこさに負け、僕はホストに体入する約束をしてしまった。しかも体入の日はその日の夜だ。 ホストクラブの営業時間は一部と二部に分けられている。一部は19時~0時、二部は日の出~10時というとことがほとんどだ。たまに三部といって昼間に営業しているお店もある。 僕がスカウトされたのは二部のお店だった。結局その日の終電でお店に行き、初めてホストクラブというものを体験した。確かその時思ったことは 「女の子とお酒飲んでお金貰えるなんて最高だな!」 こんな感じだったと思う。今思えばなんて安易な考えだと思う。 後から嫌というほど思い知らされるのだが、ホストの世界はこの時の自分が思っているほど楽でもないし、華やかでもな
プロローグ 毎日残業なんてしたくない・・・。 嫌いな職場の人たちと一緒にいたくない・・・。 本当の自分を押し殺して働くのはもう限界・・・。 私は今、26歳の会社経営者。 新卒1年目22歳の時はブラックな職場で医療事務として勤務しており、 毎日がとにかくストレス、ストレスストレス・・・。 そんな生活に限界がきて 丸1年勤めた後に退職しました。 その後、23歳でサイトアフィリエイトを始めて 約2年後には医療事務の基本給と ほぼ同額の家賃がかかるマンションに住める収入になりました。 今は「時間的・金銭的に自由な人生」を謳歌しています。 さて、こんな私は何を考えて 人生をおくってきたのでしょうか? ~暗黒の新卒1年目~ 「今日は22時まで仕事だからね」 えーっ?! 入職2日目にして、いきなり22時まで残業?! 予告もなしにそう言われて、耳を疑った。 通勤時間は「自宅から徒歩8分」という一見、 楽そ
私の状態は ICU(集中治療室)で10年働く看護師も見たことがないほど 奇跡的な生還だった。 そして脳出血の原因は、日本人の5~10万人の確率で 先天的に存在するAVM(脳動静脈奇形)であった。 緊急手術して何とか一命を取り留めたが脳出血後、 約1か月間のことは今でも何も覚えておらず、 周囲の人曰く「自分の状況をわかっていない様子」だったとのこと。 ↓集中治療室(ICU)にいた時の写真 頭部に穴を開けて管を通し、血を抜いている光景 ↓数回手術したあとの写真 脳内の血は除去され、管を外した。 ↓脳から抜いた血液(ずい液なども混ざっている) こんな大病をしたらほとんどの人は 「自分は不幸だ。 なんで自分だけこんな目にあわないといけないの?」と 嘆くだろう。 でもそうやって自ら悲しい思考になって、何か好転するだろうか? 決してしないと思う。 私は「脳出血して不幸」ではなく 「致死率99.9%の脳
ジェットコースターのような乱高下する人生は、友達のユウくんに誘われて、キャンプに参加したところから始まった。季節は秋。1泊2日のキャンプに、私は「暇だし」という理由で、特に期待する事なく参加した。私も含め男女8人が東京郊外のキャンプ場に集まったのだけど、私の知り合いは誘ってくれたユウくんだけ。私の他に女子が1人いて、残った5人の男の中に「彼」は居た。 やや小柄でモンベルの緑のアウトドアウェアを着ていた彼は、天然パーマのくせ毛で、ちょっとだけ前歯が出ていた。 「サッカー日本代表の遠藤に似てるね」 そう言ったのを今でも覚えている。その時の彼の返事は、 「前歯だけだろ」 というものだった。嬉しそうでも悲しそうでも恥ずかしそうでもない、それが私達のファーストコンタクトだった。 午前中に都心を車で出発して、東京郊外のキャンプ場についたのは午後3時頃。一番最初にしたのは、みんなでテントを建てる事だった
最初に言っておきますが、これは僕の勝手な見解です。 ちなみに、僕はカナダに住んでいた時期もありましたし、現地で留学エージェントとして働いた経験もあります。今はフィリピン留学のエージェントをしています。そんな僕のストーリーというか意見なので少しはみなさんの役に立てれば嬉しいです。 まず、題名にある通り日本人は正直英語を勉強しなくてもいいと思っています。 その理由は「別に英語なんて使えなくても日本語だけで生きていける」から。 僕は日本で生活していて英語が使えないから困ったという経験がほとんどない。 みなさんも考えてみてください。 あまりそういう経験はないはずです。 あるとしたら、あなたが意識的に必要な環境に身をおいているから。もしくは、観光で来ている外国人に道を聞かれた時ぐらい。。。。でしょうか?いやいや、もっとあるかもしれませんね。いずれにしろあなたにとってそんなにたいした事ではなかったはず
「ブレイクアウト」を“崩し”にかかる ① 戦略の決定 さっそく西角は戦略を思案。 ブレイクアウトを超えるためには、 ブレイクアウトの面白さを取り入れた上に、オリジナル性を出すことが重要だと考えた。 ブレイクアウトの面白さは、やはりターゲットを一つずつ消していき、最後の一つを消した時のあの爽快感だ。 次に、ブレイクアウトには無いオリジナル性の部分だが、 これは「CPUを駆使した撃ち合い」だと考えた。 ブレイクアウトでは、プレイヤーが一方的にブロックを崩すだけ。たまに跳ね返ってくるものの、それは自分が放った玉であって、受けても問題はない。 これを”当たってはいけない”相手からの攻撃にしようと考えた。 さらに、これまでのゲームでは敵から攻撃されることはあっても、 敵から「狙われる」ことはなかった。 「プレイヤーの位置をコンピューターが認識して選択的に攻撃をしかけてくる」 今では、当たり前となった
ひとり結婚式から1年余り経った頃。 なんと、ふたりで結婚することになった。 本当にちゃんと結婚しました 「ふたりで結婚する」という言葉は「頭痛が痛い」のように間違った日本語なはずだけれども、ひとり結婚式を知る周囲の人々に結婚の報告をすると必ず「またひとりで?」と訊かれるので「ふたりで」と付け加えなければならない羽目になった。 あるいは「こいつなに言い出すんだ」「またろくでもないことをやるつもりだろう」と苦い顔をされたり「もうしたでしょ」と認知症のご老人に諭すような口調でからかわれたりなど、なかなかまともに取り合ってもらえなかった。 心配の声も多かった。「旦那さんになる人は同棲失敗をネットに書いていることやひとり結婚式を知っているのか」 ちゃんと知っているのでご安心ください。面白がってくれており、同棲に関しては「ゴミ屋敷に住んでる人ってたまにいるよね」ひとり結婚式に関しては「特にケーキ入刀が
まえがき 28歳大学生受験編から32歳新卒内定までの体験談を読んで頂いて、 誠に感謝です!沢山のお声を頂戴して書いてよかったなあとしみじみ思います。 今回は新卒就活ノウハウ編を書かせて頂きます。 それにあたり、正直なところ僕の場合は特殊なケースで、 32歳から新卒就活で10社中6社内定を頂きました。 そのため、22歳で就活をされる多くの方の参考になるか分かりません、 僕ぐらいの年齢で大学入られた方の参考には少しだけなるかもしれません。 ただ、一つだけ言えるのは、僕の考え方は非常識だということです。 それでも良いという方は読んで頂ければ幸いです! それでは、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ このたびSTORYS書かせて頂いたご縁で出版いたしました。 2017年4月15日八重洲ブックセンターさんで14時からトークショーを行います! ご興味があれば是非!お話しましょう!
いくら情弱全盛の時代とはいえ、大阪人の勘が「市場価値的におかしい!」と訴えていたのですが、「洗脳」に負けてしまいました。
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