巫俊(ふしゅん) @fushunia 【今日の発見のまとめ】 ヤマトから見て、足を伸ばした先の「つま先」の辺境の土地が「サツマ」。 しかし、その薩摩は、南西諸島に対しては「ヤマト」として接した。 西周から見て、イバラが生えてる未開の地が「楚」。 しかし、その楚は、長江流域に対しては「商」(殷)として接した。 2017-04-02 02:33:47 巫俊(ふしゅん) @fushunia ●「楚」と、「殷」(商)「周」の関係 中間にある「上洛・商県」は、殷末の周から「楚」と呼ばれた(周で出土した周原甲骨文より) しかし、西周時代の周は、漢水の南側を「楚」(イバラだらけの未開の地)と呼んでいる(西周の青銅器の銘文より) だが、その頃、楚王の祖先は商県にいた! pic.twitter.com/fXCYYEUfpb 2017-04-02 03:15:21
「四面楚歌」の故事成語を、意味自体は正しかったんだけど、(周りが敵に囲まれていて絶望する状態) その由来が全然違ってた 勘違いしてたときの四面楚歌↓ \♪楚の歌♪/ 楚楚楚楚楚楚楚楚楚楚楚楚 楚 楚 楚 敵(もうだめだ) 楚 楚 楚 楚楚楚楚楚楚楚楚楚楚楚楚 本当の四面楚歌↓ \♪楚の歌♪/ 敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵 敵 敵 敵 楚(もうだめだ) 敵 敵 敵 敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵 そっちが楚の歌を歌うのかよ! 楚はそれを聞いて、諦めちゃうのかよ! ていうか、よく敵は楚の歌を知ってたな! なんかいろいろ突っ込んでしまった
「骨と皮に成り果て死を待つ政治犯が解放される」と先月末の当ブログで、マチュのゴシュル・ロプサン(སྒོ་ཤུལ་བློ་བཟང་།43)の状況を伝えた。その時点で彼は確かに生きていた。 今月21日付けTCHRD(チベット人権民主センター)リリースによれば、ゴシュル・ロプサンが3月19日の夜中、静かに息を引き取ったという。 「最後まで話すことができなかったが、ただ静かに両手を合わせて亡くなった」と現地から伝えられる。解放された後、4ヶ月以上床についたままだった。 2008年3月、甘粛省甘南チベット族自治州マチュ県ペルペン郷(རྨ་ཆུ་དབལ་པན།)で起った平和的抗議デモに参加したゴシュルはデモの煽動者とみなされ、その後、逮捕を逃れる逃亡生活を余儀なくされた。2年以上の逃亡生活の末2010年5月16日に発見、逮捕される。 写真1、2、自宅に引き取られた後のゴシュル・ロプサン。 逮捕後5ヶ月
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