人間原理についてぼんやり考えていて、いずれにせよ宇宙定数みたいな偶然ではないよなという定数があるとしても、それ自体が人間が存在していることを前提にすれば別段不思議ではない。そうでなければ人間は存在しえなかったわけだし、というだけ。 ただ、この問題はそう簡単に片付くわけでもないだろう。 ファインマンだったか量子力学を「理解」している人はいないだろうみたいなことを言っていたか。もちろん、量子力学というのは数式で表現できるのだから、それは理解を表現したものなので、よって理解している人はいる。まあ、それはそうだが、ベル不等式が示す意味というのは、理解を超えると言っていいだろう。まあ、普通に。 同様にというのは曖昧だが、基本的に人間が理解する限定というのはあるだろう。可聴音の比喩で可思考領域というか。 というか、この場合、理解とはなにかということになる。 最近はどうか知らないが、私が若い頃、量子論理
⇒はてなユーザーってちょっとデカダンスなとこあるよね まあ、これコピペネタなわけだけど。 で。 ロゴスとパトスって言うかさ。弁証法的に止揚されるにはペダンチックすぎるw ロゴスとパトスの弁証的な止揚はそれ自体がペダンティズムの否定にならざるを得ない。 レヴィ・ストロース的唯物史観のアイデンティティ確立されてないし レヴィ=ストロースに唯物史観はない(エンゲルスの原始性の了解と対比せよ)し、唯物史論世界観にアイデンティというのはない(マルクスの自由の概念はそれに近いにせよ)。というか、アイデンティティは現代哲学のコンテクストでは実存主義の言い換え的側面があり、後期サルトルが的唯物史論世界観に惹かれたのは構造側つまり非アイデンティの問題への配慮であった(あるいは自由の主体的な再定義)。 もっと生の哲学の面からコンテクストを抽象化していかないと 生の哲学は多様なんだけど、基本的にウルな現象性の抽
新しく取り上げるほどの社会的な話題はない。歴史的な話題にしてもいいのだが、趣向を変えてオントロジーの話を書く。とはいえ、この話題を書くのはためらうものがある。自分がこの分野にすでにロートルなので、たいした情報が提供できるわけではないからだ。が、どうせ私的なブログなのでメモがてらに書いてみよう。社会問題の話題を期待している読者がいたら、申し訳ない。一回休みである。 W3Cに祀り上げらたティム・バーナーズ・リー(Timothy John Berners-Lee)だが、最近RDFを深化させた形でセマンティックWebを提唱している。ようは、RDF(Resource Description Framework )の上にオントロジーを載っけるのだ。ほぉ、そう来たかという感じもした。 はてなさえブログブームに推されてRSSを付加するようになったので、RSSについては一般認知度が上がった。とはいえ、RSS
⇒極東ブログ: 機械は意識を持つか。コンピューターは意識を持つか。インターネットは意識を持つか。 とはいえ、大森哲学は国際的にはナンセンスに近いのでそれをベースに議論をしてもしかたないだろう。ただ、大森を読むようになって30年経つがまったく古いと感じない。恐ろしいものがある。彼がやり残した、量子力学とゼノンパラドックスの問題も解きたいと一時期は思ったが、まあ、私にはできそうにない。ただ、だいたい大筋はわかった。ブログにさらっと書いてみたい気もするが、まあそんな気力でも出てきたらというか、しないか。 ロボットの意識の問題も、基本的は、後期大森では他我論に吸着されるようでいながら、その射程の可能性には、生命と自然と人との関わり・対応、というものの、知識工学的な、いわばグーグル的な世界への想像力による洞察が含まれていたのだと、あらためて大森のすごさを思った。 私はぼんやりと、人工知能論が失敗した
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