義認・聖化・栄化という神学用語は、キリスト教の救いを過去、現在、未来という時間軸で表すときに使われる言葉です。本エッセイでは、ロマ書8章を中心に「世界の相続人」と「神の像」という言葉に注目しつつ、義認・聖化・栄化という用語を捉え直してみたいと思います。
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義認・聖化・栄化という神学用語は、キリスト教の救いを過去、現在、未来という時間軸で表すときに使われる言葉です。本エッセイでは、ロマ書8章を中心に「世界の相続人」と「神の像」という言葉に注目しつつ、義認・聖化・栄化という用語を捉え直してみたいと思います。
(ダンテの「神曲、天国編」につけたギュスターヴ・ドレの挿絵「チェレステの薔薇」) 初めに プラトンは、「人は死後に天に上り神と一体となる。それこそ人の最高の幸福でありまた最終目的である」という思想を語りました。その流れを汲む紀元3世紀のプロティノスは、「神の直観(直視)と神との合一」を最高の目標にあげています。その影響を強く受けたアウグスティヌスは、新天新地の完成に触れながらも、最終的には「人は神だけを見つめ、神が全てとなる」と述べて、新天新地は実質的にアウグスティヌスの意識から薄れていきました。その後、この神秘主義的思想は「至福直観」と呼ばれるようになります(歴史的経緯に関しては、エッセイ「『天から来て天に帰る』のルーツ」参照)。 アウグスティヌスがその思想を聖書から裏付けるために使用した聖書箇所が、「顔と顔を合わせて見る」(1コリ13:12)、そして「神が、すべてにおいてすべてとなられ
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