--- お知らせ ---
最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)
最近はtwitterにいます。ブログを書くよりも手軽なので。たぶんそれが理由で、ブログの更新頻度が落ちています。
あと、コンタクトはtwitterが一番はやいと思います。従来通りメールフォームを通じてコンタクトくださる場合で、かつ返事が必要な場合は、返事用のメールフォームをご用意ください。メールアドレスでは返信いたしかねます。また、必ず返信できるとも限りません。なにとぞご了承ください。(以上、2009.6頃の記述)
Twitterのぬるま湯につかりすぎると風邪をひく - 鍵壺のWeblog このエントリの感想.および,私のTwitterでの振舞い.何か気になることがあれば,ブコメでもトラバでもreplyでも何でもよいので意見を下さい.よろしくお願いします.
それでは早速︵笑︶。
あの人からremoveされたのはなぜ? Twitterでは,ゆるい繋がりを求める人たちが,気ままに,繋がったり,離れたりを繰り返す. 相手に興味があろうがなかろうが,何かの縁でfollowして,何かの拍子にremoveする.そんな距離感が当たり前の世界. みんな自然体でつぶやく.それに魅かれて追いかける者もあれば,相性が合わないなあ,とremoveする者もいる. だから,私は,誰かからremoveされても気にしない. ……だったけれど,こちらが好意を持っていた人に断ち切られて以来,removeを気にするようになってしまった. よくreplyをくれた人,毎日のようにfavをつけてくれた人,ある日突然,removeされた.何がきっかけだったのだろう. どれか特定のpostだろうか.一連の独り言が不快感を与えたのだろうか.それとも別の理由があるのだろうか. どうして私をremoveしようと決めたのだろう.理由が知りたい..
気持ちは分からんでもないよ。 ただ、まず僕が思うのはね、﹁この手のゴタゴタは、気にし始めると一生終わらない﹂気がするということ。 少なくとも僕は、この手の話に自分の大切な時間を割いてしまうことのほうに、ある種のもったいなさを感じるかな。 だから、ちょっと考えて分からなかったら、とりあえずそれはそれで置いておいて、別のことをする。 もしかしたら別のことをしているときにまた気づくかもしれないし。
一つの疑問にずっとこだわり続けることは、有意義な場合もあるんだけれど、ことに特にその疑問の原因が﹁人間関係のゴタゴタ﹂にある場合は、ほかのことの一切を忘れてそのことにこだわり続けることに、さほど意味はないことが多いように私は思う。 だってそうじゃん。 こだわり続けた結果何が出てくるのよ? クヨクヨとか、自信喪失とか、そういうマイナスのたぐいがどんどん増幅されるだけでしょ? そんなものをわざわざ努力して増幅して嬉しいのかどうか。 私は少なくとも嬉しくない。
炎上が起こりにくいので,極端なことがpostできる.極端なことは多くの人の共感を得ることは難しいけれど,一部の人の心を鷲掴みにできれば,favの数は稼げる.だから,調子にのって,ついつい極端なことをpostしてしまうかもしれない.しかし,そこで生まれた反感は,removeやblockとなって表れる.が,これは気付きにくいのだ.f/fがそれぞれ三桁を越えたあたりになると,removeされたりblockされてもTwitter単体では気付くことはあまりなくなる.だから,こちらに興味を示してくれているなあ,というあの人から,いきなりremoveされてしまうのかもしれない.
だからね、それはね、あれでしょ、﹁mixiでマイミクを外されたときに知らせが飛ばないことをどう思うか問題﹂と同じでね、 思わせぶりな人がいきなりremoveを食らわせてきたことにショックを受けるのだとしたら、すでにしてそのことが、自分はtwitterをmixi的に使っていた、ということの証明にもなってしまうわけでね、 ﹁twitterに何を求めているか﹂に関して、自分が自覚的に認識している基準と、真に自分が認識している基準とのずれがあるってことだよね。
で、まあ、それを知ったとして、﹁どうしたいのか﹂だ。それが次の問題として浮上してくると思うんだよね。 ﹁ああ、自分はtwitterをmixi化してしまった張本人だ﹂ということを知ってしまったときに、どうしたいかということ。
まあこれは遅かれ早かれ、色々なところで、同時多発的に起こって然るべき事なのではないかあと思います。たぶんkey_さんがそう書いてるということは、twitterの利用者母数をぼくは知らないけれども、まあ、例えば10人くらいは同じように感じている人がいると考えてしくはないと思います。 IT系のスキルの乏しい層が大量にtwitterに乗り込んでくるのをまたずして、twitterのmixi化が生じる可能性のあることを示しているという点において、key_さんのご指摘は価値があると思います。
Twitterは、1つ1つのpostがそもそも読まれているかすらわからないので、replyやReTweetやfavがつかないことが、つまらないことの表現にならない。
いや、そうとは限らないと思うんですよね。twitterはさまざまな利用可能性に開かれているので、﹁postしている人に知られずに読みたい﹂ということも、しようと思えばできるわけですよね。 そういう意味では、ぼくは新聞に近いのかなと思っています。誰が読んでるか分からない、意外な人が読んでる、などなど。もちろん読み手の母数は桁が全然違うわけなんだけれど、書き手と読み手との距離感みたいなものの構造が、なんとなく似てる気がするんだよね。
楽しいは正義. だけど,痛みを感じない身体ってうらやましい? 身体が傷付いてしまっても気がつかない.血が流れていることにも気がつかない. そのままにしておいたら,気付かぬまま意識を失ってしまうよ.
んー、結論から言うと、あなたは傷つきたいんですか、それとも傷つきたくないんですか、ということだよね。
で、それに対するたぶん一般人の代表的な意見は、﹁結果的に良かったと思えるような傷だけ選択的に受難したい﹂ではないかと思うんですが、果たしてtwitterはこれを実現するに足るインフラになっているかどうか。 或いは、そういうものを、IT技術を洗練することによってだけで実現可能なのかどうか。 結局人間の側が何らかの意味で変化︵成長︶しなければ、そういうのは絶対に無理なのかどうか。 そこはたぶんまだ分からなくて、だから今の時点でこの問題に結論を出せている人はいないんじゃないかなと思うんですけれども︵いたら教えてー︶、どうでしょうかね…。
Twitterは楽しい.ポジティブな感想に溢れていて気持ちがいい.気持ちがいいのはいいことだけど,あくまで短期的に気分を高揚させてくれるもの.Twitterに長くつかってたらポジティブな感想でも,得られる喜びは薄まってゆく. 長期的な視点で見ると,自分の悪いところを改善するチャンスとなるような,ネガティブな意見をもらったほうがためになる.. みんなやさしーから忠告してくれないんだよね。だけど、表面的には傷付くかもしれないんだけど、もっとびしっと言って欲しいんだ。そのほうが後の為になるから。逆に相手のためと思ってびしって言うことが多いんだけど、それを嫌う人もいるんだよね。なんか難しいよね、そういうの。
だからそれはtwitterに限った問題じゃないよね。リアルでもまったく同じ事が言える。人間関係に共通の普遍的な問題なので。 もちろん、その問題が、twitterをうまく利用することによって解消ないし緩和される可能性はある。現にtwitterではポジティブポストが表面化しやすいという特性があるという事実は、緩和の一つの在り方なんだと思うし。
“﹁ミクシィ﹂に仕事の愚痴、女性警官を処分。県警は﹁警察官の信用を失墜させる行為﹂と判断”
思ってもいないことを書いて処分されたのなら、確かに悪質な信用失墜行為だといえるが、思ったことを正直に言ったのだとしたらそれは正当行為と言えるのでは?
思ったことを正直に言うことができる警察内部的な仕組みがないから、外側にはけ口を求めるわけで。
こういうことが起こると、﹁やっぱり警察官みたいな仕事をしてる人は、︵ネットで活動する際も︶匿名で書かないとな﹂というのが一時的な防衛手段になるんだろうけれど、それってなんだかな、と思う。﹁バレなければ何してもOK﹂というのを警察官が率先してやることになるわけで。
匿名であろうがなかろうが、やってることに変わりはないんだよ。
***
そもそも誰の誰に対する信用を失墜させているのだろうか? ちなみに私は、こういうことが起こったことによって、自分の中の﹁やっぱ警察官は信用できない﹂度が上がった、ということはない。むしろ、﹁警察官も人間なんだな﹂と思うことによって、信頼度は増してる気もする。
﹁警察の信用﹂というときの信用の主体が市民なのであれば、 ﹁この行為によって警察官への信頼度は上昇したか下降したかそれとも変わらないか﹂を、投票によって決定し、それによって、しかるべき処分をするというのが、﹁本筋﹂だと思う。
この手の問題は、表と裏の区別の問題なんですよね。女優でも排便するんですよとか、その手の話。それは真実だが、今はみたくない、という。劇を鑑賞しにきた人の多くは、劇だけを見たいのであって、セットが張りぼてであることを知りたいのではない。
私なんかはむしろ、劇を鑑賞するときであっても、なんとなく﹁裏現場﹂を知りたくなってしまうほうなので、表を見てるだけでは分からない真実を同時に伝えてくれたほうがありがたいと思うほうだが、大部分の人たちはたぶんそうではなくて、そういう人たちへの配慮をしろということなんだろうねきっと。
最近は、﹁舞台裏﹂をあばく、じゃなくて紹介する系のものがウケる傾向にある気がする。﹁劇を表から鑑賞するだけの人は市民としての義務を果たしてない、消費者としてしか行動しない、一ランク落ちる人たち﹂という認識を持つ人たちが多数派になるのも時間の問題かもしれない。
そしてそういう時代がくれば、﹁警察官がSNSに愚痴を書き込めば、それによって警察官の信用度があがり、解雇されるどころか逆に表彰される﹂という時代が、或いはくるのかもしれない。 ここでもやはり、﹁劇﹂の劇性への自覚の有無がポイントになっている。
それは、極端に右傾化、もしくは左傾化することなく、かつ、市民としての自覚を持つことができることへの第一歩である気がする。﹁舞台裏﹂を紹介する作品の隆盛という最近の傾向は、その第一歩がすでに踏み出されていることを反映しているように私には思える。
***
まあ一言で言えば、﹁君たちはいつまでその“引きつった顔”で演技を続けるのかね?﹂と言ってやりたい気がしたということだよ。
まあ、﹁仕事というのものは、基本、“引きつった顔”でやるべきものだ﹂という反論もありだけど。
﹁やりたくてもやりたくなくてもやらなければならない。やりたくないときにやるとどうしても顔が引きつる。でもそれは、自らの欲望と引き替えに職務の遂行を優先していることのなによりの証なんだ。だから引きつった顔をして仕事をしている人を私は褒めてやりたい﹂という反論は有りだ。
でもそこで、﹁引きつってることを見破られたら、おまえは仕事人として終わりだぞ﹂であるのだとすれば、仕事ってなんだろう、とは思ってしまう。
演技と非演技の境目を観客に見破らせないことができるのが、プロの定義なんだろうか。 或いは、演技と非演技の境目が、自分でも分からなくなるほどに、演技がきわまってきているとき、その引きつりはいつのまにか引きつりでなくなる。それこそ仕事の流儀ではないか--という主張もまた有りだ。
しかし、この手の結論はすでに十年前の私が同期に対して言っていたことで、とくに目新しい話ではない。その要諦を一言で言うなら、﹁自己暗示の非自覚化の達成﹂こそが、あらゆる︵天下り的に与えられるところの︶目標駆動型タスクの健全な遂行のために必要なことだ、ということである。
これは教育についても言える。自分がなぜそれを学ばなければならないのかが分からない段階でそれを学び始めることに積極的な動機が持てないときに、私はこの理法を積極的に活用した。そしてそれは或る程度は奏功した。
***
さきほどの、﹁誰からの信用を失墜したのか﹂ということについてだが、戦前だったら、天皇からの信用を失墜した、ということで、論理的には筋が通るんだと思う。
SNSで愚痴るだけで信用失墜だ、というのは、何かしらの﹁大いなる存在﹂を全員が共有している、という前提でしか通用しない。﹁大いなる存在﹂様が疑問をお持ちになるようなことは、わたくしめらは慎まねばならない、という論理。
いまでは﹁大いなる存在﹂=お客様、なのかな。私たちは天皇信仰をやめた、というよりもやめさせられたわけだけれども、代わりに今度は﹁お客様信仰﹂を始めた。日本が国際的に見ても、過度に﹁お客様信仰﹂の強い国であることもまた、このことと無関連ではあるまい。
思ってもいないことを書いて処分されたのなら、確かに悪質な信用失墜行為だといえるが、思ったことを正直に言ったのだとしたらそれは正当行為と言えるのでは?
思ったことを正直に言うことができる警察内部的な仕組みがないから、外側にはけ口を求めるわけで。
こういうことが起こると、﹁やっぱり警察官みたいな仕事をしてる人は、︵ネットで活動する際も︶匿名で書かないとな﹂というのが一時的な防衛手段になるんだろうけれど、それってなんだかな、と思う。﹁バレなければ何してもOK﹂というのを警察官が率先してやることになるわけで。
匿名であろうがなかろうが、やってることに変わりはないんだよ。
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そもそも誰の誰に対する信用を失墜させているのだろうか? ちなみに私は、こういうことが起こったことによって、自分の中の﹁やっぱ警察官は信用できない﹂度が上がった、ということはない。むしろ、﹁警察官も人間なんだな﹂と思うことによって、信頼度は増してる気もする。
﹁警察の信用﹂というときの信用の主体が市民なのであれば、 ﹁この行為によって警察官への信頼度は上昇したか下降したかそれとも変わらないか﹂を、投票によって決定し、それによって、しかるべき処分をするというのが、﹁本筋﹂だと思う。
この手の問題は、表と裏の区別の問題なんですよね。女優でも排便するんですよとか、その手の話。それは真実だが、今はみたくない、という。劇を鑑賞しにきた人の多くは、劇だけを見たいのであって、セットが張りぼてであることを知りたいのではない。
私なんかはむしろ、劇を鑑賞するときであっても、なんとなく﹁裏現場﹂を知りたくなってしまうほうなので、表を見てるだけでは分からない真実を同時に伝えてくれたほうがありがたいと思うほうだが、大部分の人たちはたぶんそうではなくて、そういう人たちへの配慮をしろということなんだろうねきっと。
最近は、﹁舞台裏﹂をあばく、じゃなくて紹介する系のものがウケる傾向にある気がする。﹁劇を表から鑑賞するだけの人は市民としての義務を果たしてない、消費者としてしか行動しない、一ランク落ちる人たち﹂という認識を持つ人たちが多数派になるのも時間の問題かもしれない。
そしてそういう時代がくれば、﹁警察官がSNSに愚痴を書き込めば、それによって警察官の信用度があがり、解雇されるどころか逆に表彰される﹂という時代が、或いはくるのかもしれない。 ここでもやはり、﹁劇﹂の劇性への自覚の有無がポイントになっている。
それは、極端に右傾化、もしくは左傾化することなく、かつ、市民としての自覚を持つことができることへの第一歩である気がする。﹁舞台裏﹂を紹介する作品の隆盛という最近の傾向は、その第一歩がすでに踏み出されていることを反映しているように私には思える。
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まあ一言で言えば、﹁君たちはいつまでその“引きつった顔”で演技を続けるのかね?﹂と言ってやりたい気がしたということだよ。
まあ、﹁仕事というのものは、基本、“引きつった顔”でやるべきものだ﹂という反論もありだけど。
﹁やりたくてもやりたくなくてもやらなければならない。やりたくないときにやるとどうしても顔が引きつる。でもそれは、自らの欲望と引き替えに職務の遂行を優先していることのなによりの証なんだ。だから引きつった顔をして仕事をしている人を私は褒めてやりたい﹂という反論は有りだ。
でもそこで、﹁引きつってることを見破られたら、おまえは仕事人として終わりだぞ﹂であるのだとすれば、仕事ってなんだろう、とは思ってしまう。
演技と非演技の境目を観客に見破らせないことができるのが、プロの定義なんだろうか。 或いは、演技と非演技の境目が、自分でも分からなくなるほどに、演技がきわまってきているとき、その引きつりはいつのまにか引きつりでなくなる。それこそ仕事の流儀ではないか--という主張もまた有りだ。
しかし、この手の結論はすでに十年前の私が同期に対して言っていたことで、とくに目新しい話ではない。その要諦を一言で言うなら、﹁自己暗示の非自覚化の達成﹂こそが、あらゆる︵天下り的に与えられるところの︶目標駆動型タスクの健全な遂行のために必要なことだ、ということである。
これは教育についても言える。自分がなぜそれを学ばなければならないのかが分からない段階でそれを学び始めることに積極的な動機が持てないときに、私はこの理法を積極的に活用した。そしてそれは或る程度は奏功した。
***
さきほどの、﹁誰からの信用を失墜したのか﹂ということについてだが、戦前だったら、天皇からの信用を失墜した、ということで、論理的には筋が通るんだと思う。
SNSで愚痴るだけで信用失墜だ、というのは、何かしらの﹁大いなる存在﹂を全員が共有している、という前提でしか通用しない。﹁大いなる存在﹂様が疑問をお持ちになるようなことは、わたくしめらは慎まねばならない、という論理。
いまでは﹁大いなる存在﹂=お客様、なのかな。私たちは天皇信仰をやめた、というよりもやめさせられたわけだけれども、代わりに今度は﹁お客様信仰﹂を始めた。日本が国際的に見ても、過度に﹁お客様信仰﹂の強い国であることもまた、このことと無関連ではあるまい。